小グループで聖書を学ぶ
5 キリストの推薦状(Uコリント3:1〜6)

「心の門を開いて」

 誰でも、人の評価というものがとても気になるものです。高い評価を得ようと努め、労苦します。誤解されたり、低く評価されれば、悲しみ心痛めます。職場や学校などでは、自分をアピールしたり、推薦を必要とする場面もあります。どう考え、対処すればいいか悩むこともあります。聖書はどう教えているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 パウロがコリントを去って後、エルサレムから来た教師たちの影響を受けた人々が、パウロを誤解し、非難するようになりました。誤解されたり、認められなかったりすることは、悲しいし、辛くなります。パウロは、そのことに何と書いていますか。
・1節/


2 当時は、自己推薦や人からの推薦状をやり取りしていました。新しい指導者たちも、自己紹介書や権威筋からの推薦状を携えて来たでしょう。それらが、彼らにとっては重要な意味を持っていたのです。だからこそ、パウロに関しても、推薦状を問題にしたのです。この1節の質問の裏には 、パウロへのどんな非難があったと考えられますか。 (参考/Uコリント5:12,11:17)



3 推薦状を重要視し、必要だと主張している人々の心情を考えてみましょう。彼ら自身、「権威ある誰かからの推薦や評価」に自分の存在意義、自己認定の元を置いていたからです。あなたも、低い評価のためにがっかりしたりしたことはないですか。誤解され、悪く言われて、心が傷つき、悲しんだことはありませんか。誤解や低評価に対して、憤慨しませんでしたか。人の評価や推薦に自分の存在意義、自己認定の元を置いていませんか。



4 誰かの評価や認定があるかないかで揺れ動いたり、人と比べて妬んだり、誤解や低評価に憤慨したりすることは、健康的な姿ではありません。パウロはどう反応していたのでしょうか。ただそんなもの必要ないと言っているだけなのでしょうか。
・2節/


5 コリントの聖徒たちに対して、「私たちの推薦状はあなたがた」だと言っているのは、他の誰かよりも、コリントの聖徒たちこそパウロについてよく知っていて、パウロの働きをあらわしているということです。だからと言って、自分の業績を誇っているわけではありません。パウロがコリントで宣教の働きをしたことは、神様の導きであり、彼らが救われたのも神様の恵みです。それでも、日ごろ自分の業績を誇る人々は、パウロが自分を誇っていると誤解するのかもしれません。そこで、3節では、どのように説明していますか。
・3節/


6 イエス様が、使徒パウロを通してコリントの聖徒たちを救いに導かれたということです。コリントの人たちの救いは、パウロの推薦状というよりも、その救いをもたらしてくださったイエス・キリストご自身を推薦していることになります。ですから、キリストの手紙と言っています。イエス様の手紙は、救われた一人一人の心に深く刻まれており、いつでもどこでも、その人を通して、イエス様が推薦され、福音が紹介されています。救われたあなたも、そういう存在になっていると知って、どう思いますか。
・Uコリント5:20,/
・エペソ6:20/

7 パウロが「私たちの推薦状はあなたがたです」と言っているのですが、パウロを批判し、パウロを悩ませている人々まで、なぜ自分の推薦状だなんて言えたのでしょうか。テサロニケ教会の聖徒のために労苦したパウロは、彼らが自分の何だと言っていますか。私たちが、ある人たちに対して、信仰をもって仕え、労苦したのならば、たとえその人たちがコリントの人々のような姿であったとしても、彼らが自分の推薦状だと言えますか。
・Tテサロニケ2:19〜20/


8 人の評価が気になっているでしょうか。評価を与えられない、誤解されていると心が痛んでいるでしょうか。自信がない、自分はだめだと言うのでしょうか。私たちは、どんな存在だと教えていますか。
・5〜6節/


9 今や自己宣伝の時代です。会社や学校でも自己推薦書や自己アピールを出させることがあります。こんな時代、静かにしていると誰も認めてくれないのでしょうか。私たちの悩みや戸惑いも、ここにあります。キリストの手紙である私たちには、どんな印が付けられていますか。
・エペソ1:13〜14節/

「命の実を刈り取ろう」

  私たちが信仰によってすることは、神様の恵みと導きの結果であり、自分のしたことだ宣伝できる資格はありません。それは、人から認められなくても、がっかりする必要はないということです。私たちの資格は、神様からです。山の上にある町は隠れることができないと言うように、聖霊によって造り変えられた聖徒は、世の光としてあらわるようになるというのです。今日の学びで受けた励まし、教え、悔い改め等を分かち合いましょう。マタイ5:14,16。

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