小グループで聖書を学ぶ

6 おおいを取りのけられて(Uコリント3:7〜18)

「心の門を開いて」
 
 私たちは、どんな姿をして世で生きているのでしょうか。どのように人々から見られているのでしょうか。福音が地中海世界に広まっていた時代、救われた人々は、どれほど魅力的だったことでしょうか。しかし、受け取った福音の内容の違いで、その姿も大きく違っていたようです。私たちは、どんな福音を持っているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 コリントの聖徒たちは、イエス様を信じて救われたのに、どうして喜びがなく不満ばかりなのでしょう。なぜ争いや批判が多かったのでしょうか。パウロから聞いた恵みの福音を忘れて、律法主義的な信仰になっていたのです。そこで、パウロは、出エジプトの時の出来事を引用しました。どんなことを言っていますか。
・7〜11節/
・出エジプト34:29〜30/

2 モーセが十戒を受けて山から降りた時、モーセの顔は光り輝いていました。 民がモーセを見ることができないほどでした。モーセが律法に仕える者であるにもかかわらず、その顔に輝きが出たというなら、まして福音に仕える者の顔から出る輝きはどれほどなのだろうかと言っています。 律法で人を戒めるのに顔が輝いていたならば、人を生かす福音に仕える者の顔からキリストの輝きが出ないことがあろうかということです。 かつてコリントの聖徒たちは、どんな者でしたか。どう変えられたのですか。
・エペソ2:12〜13, 5:8/


3 彼らは、罪と滅びの道を歩んでいた望みのない者でしたが、イエス様の福音によって救われて、罪の赦しと天国への命を与えられ、光の中を歩む者とされました。自分の肉の思いを満足させることから、主の栄光をあらわす者へと変えられました。このような素晴らしい救いに与りながら、どうしてコリントの人たちは、また肉の思いになり、争いや噂話をするようになったのでしょうか。どんなたとえで彼らの心を説明していますか。
・13〜15節/
・出エジプト34:30,35/

4 民のためにモーセの顔に覆いがかけられましたが、 その覆いは、神の栄光を見ることから、彼らの目を覆ってしまうことになりました。「思いは鈍くなった」というのは、頑固になったという意味です。 言うなれば、イスラエル人の頑なさのゆえに、心におおいが掛けられたままになったということです。クリスチャンでも、心が頑なになると、どのような姿になると思いますか。(参考/エレミヤ6:28,7:23,13:10)



5 パウロ自身、心に覆いがかかっていた時、クリスチャンを捕まえて牢に入れることが権威ある人々に認められ、律法に従うことだと思い込んでいました。一生懸命クリスチャンらしく生きようと頑張るまじめなクリスチャンが、喜びのない辛い信仰生活を送るということがあります。私たちは、どうですか。何か一生懸命やれば神様に認められ、人々に認められると考えていないでしょうか。こうでなければと執着し、人をさばいてしまうことがないですか。そうできない自分に失望し、落胆することはないですか。
・使徒9:1〜2/


6 頑なな心は、人を批判し、受け入れることを拒み、否定します。頑なになるのは、罪のゆえです。この覆いは、自分では取り除くことはできません。どうしたら、心の覆いを取り除くことができますか。
・14,16節/
・出エジプト34:29/

7 主に向き直り、主と交わり、主の御声を聞き、御言葉に導かれて歩むなら、心の覆いが取り除かれます。クリスチャンを捕まえることがいいことだと頑なに思いこんでいたパウロも、光りの中でイエス様に出会った時、悔い改めて、心がイエス様に向き直りました。その時、彼の目から覆いが落ちて、見えるようになり、パウロの輝きが始まりました。悔い改めて主に向き直り、信仰生活に輝きが出るような体験があったら、分かち合ってください。
・使徒9:17〜20節/


8 福音は私たちの側に何ひとつ功績や条件を付けていません。ただ、神様が一方的に救いに選んでくださり、ただ愛してあわれんでくださって、私たちの代わりに御子イエス様を十字架に渡されました。救いは、ただ恵みによります。この世で私たちが光り輝くことができるのは、なぜですか。どんな保証がありますか。
・ 17〜18節/
・エペソ1:14/

「命の実を刈り取ろう」

 御霊の働きによって、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿が変えられて行くのです。何と言う素晴らしい救いの恵みでしょうか。救われても少しも変わっていないのではないかと思うかもしれません。しかし、主との交わりがあるなら、主に似た者に変えられるという約束です。Tヨハネ3:2。礼拝は、主に向き直り、主と交わる機会です。きょう受けた恵みと導きを分かち合いましょう。

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