小グループで聖書を学ぶ
7 宝を土の器に(Uコリント4:1〜9)

「心の門を開いて」

 私たちは、どんな存在なのでしょう。多少は肉のプライドを持っていても、たいていの人はあまり自信はありません。勉強や仕事が思うようにできないことや評価や人との比較に悩んでいます。自分の弱さや欠けを気にしており、それが高じて心や体まで害を及ぼすこともあります。自分は、どんな存在なのか、どんな力があるのか、御言葉に聞きましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 一所懸命勉強や仕事をしていても、必ずしも功を奏すということばかりでなく、かえってうまく行かないということも多いです。その努力が認められず、誤解や反対もあります。惨めな思いになるし、落胆もします。そうなると、何のために頑張っているのだろう、自分って何だろうという思いになります。主の聖徒たちがどういう存在なのか、どのように務めを担うことができるのか、パウロの場合、何と証ししていますか。
・1〜2節/


2 パウロという人は、以前クリスチャンを迫害した人でしたが、神様のあわれみと赦しを受け、異邦人宣教師の務めに任じられた人です。神様の御前でしているという意識で働いていました。イエス様の十字架が私の罪と滅びの身代わりだと信じた私たちも、主婦や会社員、学生という立場に神様が導いてくださった、その努めをあわれんで与えてくださったと受け止めるのです。そうすると、私たちはどのようになりますか。
・Tコリント12:11/
・イザヤ40:31/

3 神様から任じられた働きだと自信をもってしても、良い結果が出るとは限りません。必ずしもその仕事や学びが認められるわけでもありません。このことについては、悩んだり、苦しんだりします。どう受け止めればいいのでしょうか。パウロは、任じられた福音宣教の努めは果たし、後は受け取る側の問題であり、神様に委ねたと証ししていることを参照にしましょう。
・3〜4節/


4 宣教を受け取る側のことまでパウロがどうこうしようとしたら、悩んで、無力感に陥るだけです。受け取る側の責任であり、神様の主権に属することだと言っています。努力したからとすぐに結果があらわれるとは限らないし、人々の評価が真実とも限りません。信じて努力することが大事です。神様の祝福があれば、いつか実り、何かにつながって行きます。働きが報われない、評価されない、相手が良い反応しないということに翻弄されたことはありませんか。



5 世の中は、自分をりっぱな者であるかのように見せようと必死です。実態以上の評価を受けようと、人のことまで自分がやったなどと言うことがあります。私たちの自信感は、自分の能力をひけらかして、肉のプライドを持つことではありません。パウロの宣教の働きについて、どのように証ししていますか。
・5節/


6 パウロは、自分は評価されなくても、福音が伝わり、人が救われ、神様の栄光があらわされればいいのです。私たちも、家や会社の仕事に関して、たとえ自分が評価されなくても、その働きが人々の助けとなり、神様の栄光をあらわすことになればよしとしましょう。歴史に名を残したクリスチャンも、そのスタイルで生きた結果、能力と賜物が発揮され、世で用いられました。私たちのこのような存在をどう思いますか。



7 イエス様を信じて、聖書の価値観で生きる者は、どのようなものだと言っていますか。この譬えには、どのような意味があるのですか。
・6〜7節/
・Tコリント1:27〜28/

8 私たちは、どんなに頑張っても、所詮は土の器です。弱く、壊れ易い器です。ですから、強がって見せたり、突っ張ったりする必要はありません。私たちは、弱い、欠けだらけの土の器であっても、そこに神の栄光という宝を入れている素晴らしい土の器なのです。とりわけ自分が弱い壊れ易い土の器だと感じるのは、苦難の中にいる時でしょう。でも、苦難に会う時、土の器である私たちはどうなると約束されていますか。
・8〜9節/


9 自分を土の器だとたとえたパウロの体は、どんな体だったのでしょうか。パウロは、自分の体について何と言っていますか。パウロの祈りに対して、主は何と言われましたか。それでも働きを守られたパウロの学んだことは、何ですか。
・Uコリント12:7〜10/
・Uコリント1:9/

「命の実を刈り取ろう」

 今日の学びでは、私たち信仰者としての存在や自信、仕事や学びにおける使命観、評価や結果への対処、苦難の受け止め方などが教えられていました。あなたは、とりわけどんなことからどのように適用を受けましたか。

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