小グループで聖書を学ぶ

11 今は恵みの時、救いの日です (Uコリント6:1〜10)

「心の門を開いて」

 私たちは、日ごろの生活において、信仰がどのように影響しているでしょうか。信じているし、日曜日は教会に行っている、と感じるだけでしょうか。それとも、救われた恵み、御言葉の生活への適用を実感して過ごされているでしょうか。使徒パウロの切実な証しを通して学びたいと思います。

「御言葉の種を蒔こう」

1 混沌としていたコリント教会には、パウロから伝えられた福音に堅く立っている人もいたし、偽教師の影響で信仰が曲がってしまった人もいたし、真実に救いを求める求道者もいました。使徒パウロは、そのようなコリント教会の人々へどんな懇願をしていますか。
1節/


2 罪にほんろうされて、滅んでしまうような私たちをあわれんでくださった神様は、私たちを罪と滅びから救うために、御子イエス様を私たちの代わりに十字架に渡されました。それによって、私たちは罪赦され、天国へ続く新しい命を与えられました。しかし、混乱と騒動の影響のために、素晴らしい福音の恵みを受け取り損ねることを心配したパウロは、何と言っていますか。強調していることは、何ですか。
・2節/
・イザヤ55:6/

3 強調されているのは、「今」という時、主にお会いできる、呼び求める機会です。その例として、二つの引用箇所を読みましょう。感じることは何ですか。
・使徒24:24〜25/
・使徒9:3〜6/

4 もしパウロが、総督ペリクスのように神の恵みの機会を逸してしまったなら、残虐な迫害者として悲惨な人生に終わったことでしょう。パウロは自分自身が、恵みを体験しているからこそ、懇願しているのでしょう。救いを受けたコリントの聖徒たちが、どんなことで「神の恵みをむだに受けないように」と言われたと思いますか。(参考/Uコリント5:16. Tコリント3:3, Tテモテ5:13,ヤコブ5:9)



5 礼拝や御言葉を通して神様の声を聞く機会こそが、私たちにとって「今は恵みの時、今は救いの日」なのです。神様の御声が聞こえますか。使徒パウロが「なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いて、「私は何をやって来たのだ」と気付き、悔い改めました。色々な機会を通して、神様は私たちに語りかけてくださいます。形式的な信仰生活をしていて、「いつまで、そんな生活をしているのか」という主の御声が心に響き、号泣して悔い改めた、という人の話しを聞きますが、そのような経験があれば、分かち合ってください。



6 苦しい出来事に出会い、問題も次々起こって来る者にとって、「今は恵みの時、今は救いの日」とは、とても思えないでしょう。では、パウロ自身の状況は、どうでしたか。また、引用されている、預言者イザヤの時代の神の民は、どんな状況にあったのですか。
・4〜5節/
・イザヤ49:7〜9,13/

7 イザヤの伝える救いのメッセージは、捕らわれて苦しめられ、さげすまれ、悩みの中にある人々に対してでした。そのような中にあるスラエルの民に対して、やがて救い主が来られるから、希望と勇気をもって耐えなさいと励ましているのです。新約の時代は、すでに救い主が来られました。パウロは、患難と苦しみの中で、どのようにしていましたか。
・6節/


8 私たちは、評価を得られなかったり、さげすまれたり、辛い立場に追いやられたり、苦しめられるかもしれません。しかし、イエス様に救われて恵みの中にあるので、純粋に信仰に生き、勝利を得て行けるのです。人は、良い評価を受けなければと常に思うのですが、クリスチャンは、神のしもべとしてどう評価されていると言っていますか。
・8節前半/


9 ほめられても、そしられてもどちらも良く、神のしもべとして信仰に生きることが大切だというのです。私たちは、どうでしょうか。イエス様の救いの中にあるのですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。この確信に立つ者は、どのようになりますか。
・8節後半〜10節/


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、世の評価に対して、「〜ようでも、しかし」と言えるのです。これが大切です。素晴らしい救いを受けながら、評価されていない、無視されている、苦しいだけだ、私には何もないなどと思うならば、それは、神の恵みをむだに受けているとなるでしょう。患難や苦しみの中にあっても、救われた者は、神の恵みの中に生きています。救いの恵みの中で守られています。私たちが救いの恵みによって生き、その恵みを証ししてこそ、神の恵みを無駄にしない生き方となります。あなたが主の語りかけを聞いて導かれた変化、今日の学びを通して示されたことを互いに分かち合いましょう。Tコリント15:10。

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