小グループで聖書を学ぶ

14 二つの悲しみ (Uコリント7:8〜13)

「心の門を開いて」

 人の悲しみには、様々な悲しみがあるようです。あなたは、どんな悲しみをされたでしょうか。悲しみにはしなくてもいい悲しみがあり、するべき悲しみもあります。コリントの聖徒たちとパウロの悲しみが、私たちに大切な悲しみを教えています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 8節の「あの手紙」とは、以前パウロがコリントに対して書いた手紙のことです。その手紙を書いた時のパウロの心はどんな状態でしたか。そして、その手紙を受け取ったコリントの聖徒たちの心情はどうなりましたか。
・Uコリント2:4//
・8節/

2 パウロの悲しみは、どう変わりましたか。それは、悲しんだコリントの聖徒たちが、どうしたからですか。聖徒たちがそうしなかったなら、どんなことを受けると言っていますか。
・9節/


3 何かコリント教会で問題が起こり、そのことでパウロは心を痛め、悲しみのあまり、涙を流しながら、愛をもって手紙を書きました。しかし、その手紙は、コリントの聖徒たちを悲しませてしまいました。あなたは、最近悲しんだことがありましたか。どんなことで人を悲しませてしまいましたか。



4 コリントの人たちの悲しみは、心が傷付き、怒りや憎しみに変わる悲しみの可能性もありました。しかし、彼らは、パウロの愛と配慮を知っています。悲しんだとしても、信仰的に受け止めて悔い改めたのです。悲しみの種類というか、悲しむ人の心情が違うようです。その結果も違って来るようです。どのように説明されていますか。対照的な違いに注目しましょう。
・9〜10節/


5 まず、「世の悲しみは、悔いを生じさせ、死をもたらす」例を見てみましょう。それぞれ、どのように悲しんで、どうなりましたか。
・創世記27:34,41/
・マタイ27:3〜5/

6 次に、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、悔い改めを生じさせる」例を見てみましょう。それぞれ、どのように悲しんで、どうなりましたか。
・詩篇51:序〜1,Uサムエル12:13 /
・マルコ14:72/

7 世の悲しみとは、失敗してしまったこと、叱責されたこと、評価されないことを嘆き恨みに向かう悲しみです。それは、失敗を指摘された恨み、罰せられたことへの怨念にすぎません。罪に対する悲しみでもなく、人に与えた痛みや悲嘆に対する悲しみでもありません。人が自分の期待や要求に沿わないことを悲しみ、相手を恨み、相手のせいにします。私たちが自分の罪を悲しみ、自分の肉の姿に悲嘆するならば、悲しみに終わることなく、主の前に立ち返ります。自分の罪と滅びのために十字架にかかってくださったイエス様を信じて、悔い改めの告白をするのです。これを読んで何か思うことがあれば、分かち合ってください。



8 コリントの聖徒たちの神のみこころに添った悲しみは、あの手紙で取り上げられたあの問題をどのように導きましたか。
・2:6〜7/
・11〜13前半節/

9 その事件について世の悲しみをするなら、彼らはその問題を嘆き、その人を責め、赦さないということになるでしょう。パウロは、多数の人から受けたあの処罰で十分だと言っています。手紙を書いたのは、問題を起こした人のためでも、被害を受けた人のためでもないと言っています。どうやら彼らは、罰を与えただけであったようです。それをパウロは悲しんでいたのです。ですから、以前の涙の手紙では、その人を赦し、慰めてあげなさいと勧めました。気付かされた聖徒たちは、そのように対処したのでしょう。次の引用箇所も読んで、あなたの感じることは何ですか。
・Tコリント12:25〜26/


「命の実を刈り取ろう」

 もし、その人が、誰からも赦してもらえず、愛されなかったら、パウロはとても悲しいというのです。パウロ自身、回心した後しばらくは、その人のような経験をしたからです。クリスチャンを迫害していたパウロに対して、イエス様は「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。つまり、この場合、もし世の悲しみのままだったら、彼らはイエス様を悲しませていたことになります。しかし、彼らが「悲しんで悔い改めた」ので、みな慰めと喜びを受けました。自分もキリストの体、その人もキリストの体なのです。一部が苦しめば、皆が苦しみ、イエス様が苦しむのです。どんな悲しみもイエス様の十字架でとかされます。あなたは、どんなことで神のみこころに添って悲しみ、悔い改めますか。7:9。

戻る