小グループで聖書を学ぶ
19 あふれるばかりに与えてくださる神 (Uコリント9:8〜15)

「心の門を開いて」

 社会の混乱、家庭崩壊、経済破綻や失業などで、今多くのたましいが救いを求め、心の助けを必要としています。そのために、神様は、私たちを用いようとしています。私たちは、余裕がないように思うかもしれません。神様が私たちを用いられるために、私たちをどのようにしてくださるかを学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 もし神様が、取引のように必要な費用だけしか与えてくださらないなら、そして、様々な問題で心がいっぱいなら、私たちの生活は、まったく余裕を持つことができません。神様は、私たちをどのようにしてくださると言っていますか。
・8節/


2 神様は、出エジプトのマナのように、必要最低限の生活ができるようにして私たちを満たしてくださることがありますが、ここでは、私たちが社会の中で常識的な方法で生活ができるように満たしてくださることです。重要なことは、神様が私たちを満たしてくださる理由です。それは、何ですか。
・8節/
・マルコ10:44〜45/

3 神様が私たちを救われたのは、私たちが自分のために生きるだけではなく、人を愛し、助けるためです。私たちの人生を通し、人の幸いを考えて生きることが、神様の御前では喜ばれることです。神様は人々を救い、助けるために、私たちを用いられます。でも、私たちは、神様に用いられることについて、心配や負担感があるかもしれません。自分には、そんな余裕も力もないと思うのです。その心配に対して、どのような譬えをもって答えていますか。その譬えの意味することは、何ですか。
・10節


4 もし神様が、農民に食べる穀物だけ与えて蒔く種をくださらないならば、彼らは農業を続けることはできません。「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」神様は、私たちに対しても、そうしてくださいます。神様は、私たちを死にそうにさせながら、人を助けさせることはなさいません。私たちに余裕がなくても、癒し、整えてから、私たちを用いられます。そのような例を聖書から見てみましょう。
・T列王17:10〜17/
・ルカ22:32/

5 10節では、人を助けることは種を蒔くことと譬えられています。ということは、人を助けることで、必ず実がなり自分に返って来るのでしょうか。そうではありません。自分に戻っては来るとは限りません。では、どうして聖書はこのように種を蒔くように言うのでしょうか。どこに、私たちの目を向けさせていますか。
・11節/


6 人を助けることで、私たちが感謝される場合もあります。しかし、私たちは、神様の御心に従って助けただけなのです。私たちは、その人の心が神様に向くことを願います。その人が神様に感謝して信仰を持ち、信仰が増し加わることが、支援や助けの最も大きな実りです。コリント教会がエルサレム教会を支援する働きは、誰に対する奉仕ですか。そして、何に対するものだと言っていますか。
・12節/


7 助けを必要とする人に対する奉仕だけでなく、神様に対する奉仕でもあります。支援の究極的な目的も、そこにあります。神への感謝で奉仕がささげられるので、恵みにあふれるようになります。イエス様の十字架によって救われたので、イエス様にならって、仕える信仰となってあらわれます。自分に与えられた賜物、財、時間などの使い方で、その人の信仰があらわれます。あなたは、どこにどのように使っていますか。
・13節/


8 コリント教会の聖徒たちが支援することで、エルサレムの聖徒たちは、コリントの聖徒たちに対して、どのようになると言っていますか。
・14節/


9 エルサレムの聖徒たちを助けることを通して、パウロは、「ことばに表せないほどの賜物のゆえに神に感謝しています」と言っています。この箇所には、二つ驚きがあります。コリント教会がエルサレム教会を支援する奉仕を通して、溢れる恵みと賜物を受ける驚きです。そして、彼らの奉仕の原動力になっているのが、イエス様の救いである驚きです。あなたは、自分が神様に用いられることについて、どんな感動や驚きがありますか。
・13.15節/

「命の実を刈り取ろう」

 神様がこのような問題の多い教会を用いられたのは、驚くべきことです。神様は、どんなに不足した者でも、用いる機会を与えます。その人も、用いられることで不足が満たされ、成長します。機会を放っておくなら、不足したままです。用いられる原動力、人を助け、愛し仕える基礎となるのは、イエス様の救いの恵みです。イエス様の言い尽くしがたい救いの恵みを覚えるならば、どうにかして神様に用いられたいと願うようになります。この学びで気付かされたこと、導きを受けたことを分かち合いましょう。

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