小グループで聖書を学ぶ

24.信仰の基本(Uペテロ1:8〜11)

「心の門を開いて」

 信仰は、私たちの人生に素晴しい幸いを与えてくれるものですが、信仰を持っているにも関わらす、その恵みを享受することなく、周りの人々を巻き込みながら、空しさや不平不満の中で揺れ動いている人もいます。そのような人々に対して書かれています。なぜそうなるのか、どうしたら信仰を享受して生きるのかを共に考えましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 私たちは、以前は、生きる目的が分からず、罪に囚われて空しく生きていました。しかし、イエス様の十字架による救いの御業を信じることによって、罪と滅びから救い出されました。信仰は神様の素晴しいプレゼントです。その素晴しい信仰の恵みを享受するためにどうするように勧めていますか。
・8節/


2 「役に立たない」とは、「怠ける」という意味です。作物を育てることを怠れば、成長せず、実りません。神様の品性を身につけて、霊的に変えられようとしない、霊的造り変えを怠るのと同じだということです。霊的造り変えのためには、「主イエス・キリストを知る」必要があります。これがどういうことなのか、パウロの例を見て、考えてみましょう。
・使徒9:1-4,27/
・ピリピ3:8-9/

3 頭では信じていても、教会生活はしていても、聖書の知識もあって、奉仕も多くしても、救い主イエス様と個人的、人格的な出会いがなければ、本当に「イエス様を知った」とは言えません。しかし、イエス様の十字架の御前で肉の自分が砕かれ、悔い改めて素直になった時、そして、イエス様の深いあわれみと慈しみが感じられ、罪赦され、神様の子どもとされた自分を喜べるようになる時、イエス様との人格的な出会いを体験するでしょう。あなたは、イエス様と個人的に出会っていますか。



4 イエス様を知るには、まずイエス様の御業を知ることが必要です。信仰の基礎はイエス様の御業にあるからです。イエス様の救いの御業とは、身代わりの犠牲、贖いです。自分の罪と滅びのためにイエス様が十字架に死なれたことを信じる時、イエス様が自分の救い主となります。しかし、イエス様を信じてなお、イエス様を知らないかのように歩んでしまう人々がいます。それは、どんな人だと言われていますか。
・9節/
・黙示録3:17/

5 「近視眼であり、盲目」というのは、目は開いていても、神様が見せようとするものを見ないで、大事なものが見えなくなっているということです。自分の思いに執着するあまり、神の御心も御言葉の原理も目に入りません。神様の御心を思わず、御言葉に聞き従おうとしなければ、どうなりますか。(参考/Tテモテ6:4,ユダ1:16)



6 信仰の成長がなく、信仰を享受できないのは、信仰の基本が理解されていないからです。最も重要なことを握っていれば成長できます。それは、何ですか。「近視眼であり、盲目」の人は、その基本がどうなっているようだと言っていますか。
・エペソ1:7,Tペテロ1:2/
・9節/

7 イエス様を信じたにもかかわらず、罪が聖められるという信仰の基本を忘れてしまったかのように、相変わらず古い人として肉の原理で生きてしまうのです。罪赦された者であるのに、人を赦すことができなくて、人を裁き、人も自分も傷けます。どうしたら、そうならないと命じていますか。
・10節/


8 神様は、私たちをイエス様の十字架による罪の赦しという救いに召してくださいました。救いは、神様の一方的な「選びと召し」です。ですから、この恵みの応答して、素直に悔い改め、素直に御言葉に聞き従い、霊的成長することが大切です。イエス様を信じても、肉の原理で生きるなら、その人が信仰の恵みを享受できないばかりか、自分も周りも傷つけ、周りの人を救いから遠ざけることになります。何か思い当たることはありませんか。


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、素晴しい宝物である信仰をいただいているのですから、「ますます熱心に」信仰の基本に生きていけば、躓くことは決してないのです。私たちがイエス様の十字架の御業を信じて救われているということは、至福の喜びです。さまよい、揺れ動く生活ではなく、信仰の基本を確信して信仰の恵みを享受しながら生きたいのです。今日の箇所から示されたこと、決意したことを分かち合いましょう。

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