小グループで聖書を学ぶ

28.罪と滅びから解放されたのに(Uペテロ2:17〜22)

「心の門を開いて」

 出エジプトの時、民の荒野の歩みは、聖書の教えの中でも特に引用される箇所です。エジプトでの奴隷の境遇から解放されたにもかかわらず、荒野での困難を通して揺さぶられ、しばしばエジプトに帰ろうとします。はなはだ矛盾した姿なのですが、今日の箇所もそのような姿が課題です。ペテロも、荒野の民を連想しながら、書いているようです。

「御言葉の種を蒔こう」

1 クリスチャンが様々な問題に出会いながらの世での歩みは、荒野の歩み、荒野の学校と言われます。確かに、世の中を生きて行く中で様々な問題や苦難に多く出会い、そこに誘惑や惑わしがあります。当時、聖徒たちを惑わす偽教師という者たちがいました。その惑わしの特徴は何ですか。
・17〜18節/


2 「ようやくそれをのがれようとしている人々」というのは、イエス様を信じることによって、以前の肉の思い、罪の習慣から解放されつつある人々のことであり、罪の習慣に囚われている自分に気付いて、そこから逃れようとしている聖徒たちでもあります。偽教師は、そういう人々を惑わし、肉の思い中心に連れ戻そうとしていました。出エジプトの民の姿と比べてみましょう。思うことは何ですか。
・民数記14:3〜4/


3 出エジプトの民が、荒野の訓練を受けたのは、神様に拠り頼んで、御言葉に聞き従って生きる民になるためでした。しかし、民をずっと引っ張っていたのは、エジプトに対する郷愁でした。奴隷として苦しんでいたエジプトからようやく解放されたのに、そこに戻ろうとしました。私たちにとってのエジプトはどんなことですか。戻るように誘われ惑わされることは何ですか。



4 イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから出て来たように、私たちクリスチャンは、イエス様の十字架の犠牲によって、罪と滅びの囚われからようやく解放された者です。私たちが再び肉の思い中心へ戻るなら、どういうことになりますか。
・19節/
・ローマ6:16,20/

5 火事になった家から逃れ出たのに、何かを惜しんで取りに戻ってしまい、火事に巻き込まれてしまう人がいます。同じように、「ようやくそこから逃れて」来たのに、元の道、罪の奴隷、肉の思い中心へ戻ろうとする姿があります。罪の奴隷に戻ろうとしていたことに気付き、立ち返るには、どうしたらよいですか。(参考/ヘブル10:25)



6 私たちがイエス様を信じたことは、罪の支配の下で生きて来たことを清算し、神様の御心に従って生きることを始めたということです。イエス様を信じていても、霊的造り変えの過程、工事中です。かつての罪の奴隷、肉の思いに戻るなら、どうなると言っていますか。
・20〜21節/
・ヘブル6:5〜6/

7 イエス様の十字架の犠牲によって罪の奴隷から解放されたのですから、再び罪の奴隷に戻るなら、イエス様をまた十字架にかけることになります。恐ろしく、悲惨なことです。肉の思い中心に戻ることの醜悪で悲惨なイメージを、当時のことわざを用いて印象づけていますが、ここで強調していることは何ですか。
・22節/


8 偽りの教えをする者は、自分たちが肉の自慢と肉の思い中心になって滅びの道に戻るだけでなく、そこから逃れて、救いの恵みを享受し、霊的造り変えを受けようとしている人々を惑わし、元の罪の奴隷に引き戻そうとします。使徒ペテロがここまで言葉をきわめて偽教師を批判するのは、ひとえに惑わされている人々を憂えてのことでした。惑わされて、罪の奴隷に戻ろうとしている人々に求められていることは何ですか。
・ガラテヤ5:1/
・ヨシュア1:7

「命の実を刈り取ろう」

 自分の救いをもっと大切に考えてください。もう空しい暗い時代に戻りたくはありません。私たちは、すでにイエス様の尊い血で聖められた者です。ほかに比べることのできない祝福にあずかった者です。私たちがたとえ肉の思い中心になったとしても、必ず悔い改めを覚え、心の痛みを感じて、嫌悪感を覚えるはずです。怒りや妬みを吐き出したままでいられないはずです。学びを通して悔い改めたこと、導かれたことは何ですか。

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