小グループで聖書を学ぶ

29.純真な心を奮い立たせるため(Uペテロ3:1〜7)

「心の門を開いて」

 「愛する人たち」と呼びかけています。偽りの教えに揺さぶられている聖徒に愛をもって直接語りかけています。揺れ動く聖徒たちがどんなことで信仰が揺らされているか教え、励まして、はじめの信仰を思い起こさせています。私たちへの語りかけとして学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 この第二の手紙を書いた理由は、偽教師たちによって、御言葉で言われていないことが教えられ、聖徒たちの信仰が揺さぶられていたからです。その具体的なものの一つが取り上げられています。どんな問題ですか。
・3節/


2 初代教会の人々の大多数は、自分たちが生きている間に主の再臨があるだろうと思っていました。その信仰のゆえに、尊い信仰を持ち続け、迫害や苦難に耐えていました。彼らは、互いに「マラナタ」(主は再び来られる)という挨拶を交わしながら励ましていました。ところが、まだ主の再臨はありませんでした。どんな思いになったと思われますか。どんな揺さぶりを受けやすいですか。(参考/Tコリント16:22脚注)
・4節/


3 すぐと思っていた主の再臨が中々ないので、聖徒たちの気持ちが緩み始め、主は来られないのか、という疑心が起こりはじめました。そこへ偽教師たちがあらわれて、主の再臨はないと聖徒たちの信仰を揺さぶりました。そこで、使徒ペテロどんな励ましを書いていますか。
・1〜2節/


4 彼らは、信じた時には主の再臨を間近に感じて、緊張感を持って生きていました。イエス様がすぐにでも来られるから、と迫害や苦難にも耐えられました。これが、初代教会の霊的力、信仰の姿となりました。マラナタ「主は再び来られる」と挨拶していた初代教会から2千年の歳月が流れました。現代のクリスチャンは、どうなっていると思いますか。


5 今多くのクリスチャンが、イエス様が再び来られるということを意識していません。これが、今日のクリスチャンの信仰を形骸化し、命を失わせています。救ってくださったイエス様に対するはじめの愛がなくなっています。主に会う備えはあるでしょうか。主が長い間来られないので、私たちの再臨を待つ信仰も弱くなっているのではないでしょうか。あなたは、どうですか。



6 主の再臨の緊張感を失い始めていた聖徒たちに、偽教師たちが来て、再臨はないと言い、信仰を揺さぶりました。なぜ、信仰が揺さぶられるのですか。私たちは、どのようにしながら過ごさなければなりませんか。再臨の特徴から確かめましょう。
・マタイ24:37〜39,43〜44/
・黙示録3:3/

7 偽教師たちが、世は創造のまま変わらない、イエス様が再び来るなんて約束はないと教えていましたが、それに対して、ペテロは聖書からどんなことを教えていますか。
・5〜7節/


8 偽教師は、「何事も創造の初めからのまま」だと言いますが、ノアの当時の世界は洪水によって覆われ、滅びてしまいました。すべてのものは、燃えてしまえば何も残りません。結局最後に残るのは、神様の御言葉と御言葉に従った聖徒たちの人生です。御言葉を握って生きているか、いつでも主にお会いする用意があるか、自分を省みてみましょう。



9 イエス様は、終わりの時は盗人のように来るといわれました。来ないだろうと思っている時に来るということです。ですから、罪と肉の思いの中に陥ってはなりません。どのように生きなければなりませんか。
・Tコリント16:13/

「命の実を刈り取ろう」

 信じたばかりのあの純粋な信仰を「思い起こし」ましょう。御言葉に素直に聞き従おうとしていた「純真な心を奮い立たせ」ましょう。主の再臨がいつ来るか分からないから、来ないと思って肉の思いのまま生きることは大変愚かな危険なことです。主の再臨がいつ来るか分からないからこそ、いつでも主にお会いする思いで、霊的緊張感をもって、御言葉に聞き従い、しっかり信仰で地上の生涯を生きて行くのです。主の栄光をあらわしながら生きたいのです。「主イエスよ、来てください。」黙示録22:20。思いが整えられたこと、間違っていたこと、何か示されたことはありませんか。

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