小グループで聖書を学ぶ

11 私の熱心、主の熱心(U列王記10:1〜36)

「心の門を開いて」

 人の肉の性質は、自分中心です。すべての状況や条件が自分に有利になることを望んでいます。ですから、神についても、自分の勝手な望みを聞いてくれる存在と期待するのです。すべてのことを自己中心に考える習性は、神の御心でさえ、自分に都合よく利用するようになります。そんな人の罪の姿をエフーのその後を通して学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 謀反を起こして王となったエフーは、すでにヨラム王とイザベル女王を倒しました。残るアハブ王家につながる者に対してどんなことをしていますか。確かに、預言者を通してアハブ王家に属する者を除けと言われていましたが、どうしてここまでしているのでしょう。エフー自身の思いは何でしょう。
・5〜7節/
・13〜14節/

2 ユダの王アハズヤの親族たちは、アハブ王の親戚にはなりますが、ここまでは言われていません。歴史において謀反を起こして王となった者が、前王家の反抗を防ぐために一族を根絶やしにしたように、エフーもそうしたのでしょう。王権を維持することが自分の願いの中心となったからです。それなのに、エフーはわざわざ何と理由づけを言っていますか。
・10節/
・15〜16節/

3 主が言われた通りに行った、主のための熱心だと言っても、自分の王権確立のために行っているならば、それは自分の熱心です。自分の熱心を誰かのせいにするのは、人の習性です。私たちも、自分がやりたいことをしているのに、誰々のために苦労している、主のために頑張っていると利用していることはないですか。



4 さらに、エフーは、霊的指導者であるヨナダブの協力を得て、バアルの預言者たちを一掃することになります。その結果、主の称賛を受けるのですが、残念な姿が繰り返し指摘されています。なぜ、そうなったのでしょう。「ヤロブアムの罪」を調べてみましょう。
・28〜31節/
・T列王12:26〜30/

5 エフーも、王権のためにヤロブアムと同じ恐れと不安を抱いて、金の子牛に仕えることをやめようとはしませんでした。つまり、本気で偶像を一掃しようとする主のための熱心ではなくて、王権を奪い、自分の王権を確立するための自分の熱心に他ならなかったのです。このような聖徒たちの自分の熱心に対して、主はどんな熱心をあらわされましたか。
・エゼキエル39:25/
・イザヤ9:6〜7/

6 主の熱心とは、ご自分の御子を救い主として遣わし、ご自分の民を救い、神の国を立てることです。信仰は、自分の熱心を信じるのではなく、主の熱心を、主の愛を信じることです。主は、イエス様によってどのように熱心をあらわしてくださいましたか。
・ヨハネ3:16/
・ローマ8:32 /

7 聖徒たちが信仰の力を失うのは、主の熱心を思わず、自分の熱心で信仰生活をしようとするからです。自分の心がイエス様だけに向いているかどうかを考えずに、イエス様の名前を呼ぶからです。心の中心に自我像や偶像を座らせたまま、イエス様をまるで便利な問題解決係のように求めるからです。どんな確信をもって呼び求めることが必要ですか。
・ヨハネ14:6/
・詩篇39:7/

8 エフーは、アハブ王家から王権を奪い、自分の王権を確立するまでは主に従い、民の支持を得て王権を維持するためには主に背を向けたのです。主の命令と自分の政治的な利益が合う時には、主の命令を実行したが、合わない時は、主の命令に従いませんでした。私たちは、神に仕えると言いながら、心の中には何があるのでしょうか。心の王座には、誰が座っていますか。
・ピリピ2:3〜4/
・Tヨハネ2:16/

9 エフーは、自分が王に立てられた本来の目的を達成するためではなく、いつの間にか自分の王権確立のためにしていました。私たちも、気付かないで、無意識に、御言葉が自分の願いに合っていることだけに熱心で、自分の都合に合わなければ御言葉を退けています。神の御心や御言葉が自分の言動の原則となっていますか。それとも、自分の利益になるかどうかが言動の原則となっていないか、省みてみましょう。


「命の実を刈り取ろう」

 主の熱心は、イエス様の十字架の犠牲を通して私たちの救いを成し遂げてくださいました。私たちは、心の王座から自我が降りて、イエス様を心の王座に迎えて生きることを願います。私たちの信仰生活も主の熱心が導いてくださいますから、信頼して従います。決心したことや気付かされたことを分かち合い、祈りましょう。ヨハネ14:6。

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