小グループで聖書を学ぶ
15 人の評価より主の評価(U列王記14:1〜29)

「心の門を開いて」

 誰でも、仕事や生活において人の評価が気になるものです。相手にどう思われているのだろうか、気にしながら行動します。もちろん、人の評価を気にするのは悪いことではないし、励ましにもなるでしょう。しかし、評価が気になり過ぎると、人の評価にふりまわされる人生となります。2人の王の人生から学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 その例の一人は、アマツヤ王です。その父は神殿修理の業績のゆえに、民の大きな評価を受けましたが、晩年には失政のために民心を失い、民に殺されてしまいました。その父の姿を見ていたアマツヤは、自分が王となって、どんなことをしていますか。その理由は何だと思いますか。
・1〜4節/
・ローマ14:18/

2 主の目にかなうように治めたのは、神の民の王として評価を受けるためでした。高き所を取り除かなかったのも、民の反発を受けることを恐れたからです。つまり、民の評価を気にしたからです。子どもの頃から成績や行動の評価があり、人間関係に翻弄され、否が応でも人の評価を気にせずにはいられません。評価が気になると、人はどのようになると思いますか。評価を得ようとどうするようになりますか。



3 人の評価を求める、つまり承認欲求は、人間の基本的欲求の1つでもあります。評価を受けられない、認めてもらえないことは、悩みや不安の原因ともなります。どのように見られているのだろうか、嫌われていないだろうか、期待に応えられているだろうかと気になってしまいます。人からどう見られているか、とても気になるのです。人目を気にしてしまう私たちに、聖書はどんなことを教えていますか。
・Tサムエル16:7/
・ルカ16:15/

4 認められ、高く評価をされれば、気持ちがよく、褒美や昇進も受けます。自分は認められていると思うと、期待に応えようと頑張り、さらに評価されるために無理をしたり、過剰に突っ走ったりするようにもなります。アマツヤ王は、何をするようになりましたか。
・7節/


5 アマツヤ王は、もっと民の評価を得ようと戦争までしたのです。外征による大勝利は、民の高い評価を得、人気を博したことでしょう。このために、アマツヤ王は、どんな気持ちになって、無謀な戦いをしましたか。その結果、アマツヤ王は、どうなりましたか。
・10〜11節/
・12〜14,19/

6 外征勝利によって民の評価と人気を得たアマツヤ王でしたが、惨めな敗戦によって民の心はアマツヤから離れ、評価を失い、謀反によって殺されました。他人承認の基準は、明確ではなく、流動的であり、他人承認に偏重することは、精神的不安定をもたらすことになります。自由と多様性を追い求めながらも、他人や周りからの承認という呪縛で雁字搦めになっているのが、現代社会の姿です。どこに目を向けるべきですか。
・使徒24:16/
・Uコリント5:9/

7 もう一人の王は、北イスラエル王ヤロブアムです。北イスラエルを始めたハバテの子ヤロブアム王と同じ名前です。ヤロブアム王は、どんなことをしましたか。
・23〜25節/


8 ヤロブアムの罪とは、民の離反を恐れ、民の評価を得ようと金の子牛を作って拝ませたことです。民の評価を求めたヤロブアム王も、積年の敵アラムを征服しました。高慢になりましたが、それについて聖書は何と教えていますか。
・26〜27節/
・申命記8:17〜18/

9 心理学者アドラーは、「あなたを嫌うかどうかはあなたの問題ではなく他人の問題である。だからあなたにはどうすることも出来ない。他人に自分の評価を変えるよう働きかけるのは間違ったアプローチ」だと言っています。そして、「人からどう思われるかなんて関係ない、ありのままのあなたでいいのだよ」と気づかせてくれるのです。この勇気がある人は、誰からもほめられず認められなくても、自分が人に貢献できていることそのものに満足することができます。神は、私たちに対して何と言われていますか。
・イザヤ43:4前半,エペソ6:7/

「命の実を刈り取ろう」

 結局、2人の王は、人の目、人の評価ばかりを気にして、主の目、主の評価を考えませんでした。そこが問題でした。私たちは主の前に生きる者です。主に喜ばれることを求めます。主なる神様は、ご自分の御子を十字架に渡されるほど私たちを愛してくださり、「あなたは高価で尊い」とおっしゃってくださる方です。人の評価を気にする私たちをも顧みて、助けてくださる方です。主の評価を求めて、「コラム・デオ」主の前に生きる者となることを願います。今日の学びを通して気づかされたことや決意したことを分かち合い、互いのために祈りましょう。

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