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3 イエス様の救いの余恵(U列王記3:1〜27)

「心の門を開いて」

 1868年ヨルダンで、後にメシャ碑文と呼ばれる紀元前9世紀の碑文が発見されました。解読されると、それがモアブ王メシャの北イスラエルに対する反乱と独立を記念したものだと分かりました。U列王記3章の記事を裏付ける貴重な考古学資料の発見となりました。この箇所から、絶望の時信仰者はどうするのか、それに対して主はどうしてくださるのかについて学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 北イスラエルの王アハズヤが即位2年で病死した後、弟のヨラムが王となりました。このヨラム王は、どんな人でしたか。彼の行ったことは、どうですか。その特徴はどういうことだと思われますか。
・1〜3節/
・/

2 ヨラム王は、偶像バアルを取り除きましたが、主だけに仕える信仰に戻ったわけではありません。中途半端でした。その人の持っている姿勢や態度が、事件や問題が起こった時に、決定的な影響を与えることになります。その頃イスラエルとモアブに戦争が起こりました。戦いに出かけるとどうなりましたか。
・4〜6節/
・9節/

3 万全の戦術で進軍しましたが、荒野で水の補給ができなくなりました。水無しでは生きていけません。そんな中で戦えば、大敗北してしまいます。信仰は、何も起こらない時には分からなくても、問題や患難に出会った時に、その真価が問われます。ヨラムは、この時何と言っていますか。彼は、どういう心境になったのですか。
・10節/
・伝道者2:20,エペソ3:13/(参考)

4 主なる神の名を出しながら、悔い改めて主に立ち返ることをせず、自分の作戦の失敗を主なる神のせいにしています。人は、自分の思いのままに生きながら、都合が悪くなると神様が助けてくれない、神が見捨てたと言うのです。ここには、信仰の王ヨシャパテもいました。信仰に生きていたヨシャパテは、この大きな危機の時、どうしましたか。
・11〜12節/
・/

5 ヨシャパテは、主の預言者を通して、主の御心を求めました。普段の信仰の姿勢が、危機に瀕した時、真価を発揮します。信仰は、患難の時に光を発します。絶望しかない環境の中でも、主の御言葉によって脱出の道を見出すのです。なぜ、絶望の危機の時、主の御心を求めるのですか。
・詩篇50:15/
・Tコリント10:13/

6 人生には、壁にぶつかり途方に暮れる時があります。出会った問題があまりにも重く、耐え難く、呻くことがあります。失敗や挫折で泣き叫ぶこともあります。人間関係で心が荒れ廃れることもあります。そのような時、主に拠り頼み、助けを求めます。預言者エリシャが、主の御心を聞くために、琴をひかせています。賛美して祈って、礼拝したということです。教えてくださった主の御心は何ですか。
・15節/
・16〜17節/

7 水を与えるには、雨さえ降らせてくだされば、問題は解決するはずです。どうして、谷一帯に溝を掘らせているのでしょうか。渇きに疲れた兵士たちには辛い作業だったはずです。しかし、連合軍はばかげたことと思わず、溝を掘りました。御言葉に従ったのです。翌朝、何が起こりましたか。このことは、どんなことを教えているのでしょうか。
・20節/


8 私たちが信仰で行うことは小さいことですが、そこに働く神の恵みは溢れんばかりです。小さな従順が膨大な歴史を動かすのです。主は、人を用いて事を行われます。注目すべき大事なことがあります。なぜ、ヨラムは、エリシャに何の関わりもないと拒絶されたのに、あわれみを受け、助けられたのでしょうか。
・13〜14節/


9 ヨシャパテの信仰のお陰で、ヨラムも一緒に救ってもらえました。このようなことを「余恵」と言います。本来受けるはずでなかった恵みという意味です。人が信仰の親や信仰の人々によって、主のあわれみや恵みを受けることがあります。私たちがどのように生きているかに応じて、周囲の人々に恵みをもたらしたり、害を及ぼしたりする可能性があります。これを知ってどう生きますか。どうしますか。
・エペソ2:8/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちが自分の業に応じて報いを受けるなら、その罪のゆえに滅びと裁きを受けるでしょう。しかし、イエス様の身代わりにより、罪赦されて救われ、新しい命、神様の恵みと祝福を受ける者となりました。まさにイエス様の救いの余恵です。私たちを通して、イエス様の恵みとあわれみが私たちの周りの人たちにも与えられることを願います。与えられた適用を分かち合い、祈りましょう。

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