小グループで聖書を学ぶ
7 目が開かれて (U列王記6:8〜23)

「心の門を開いて」

 専門家によれば、私たちは見える現実をありのままに受け取っているのではなく、脳が解釈し編集した結果を受け取っているに過ぎないというのです。その証拠に、見たまま認識するなら、錯覚は起きません。視覚データに対して事前の知識を当てはめて、見ることを可能にしているそうです。今日の箇所を通して、霊的に見ることへ目を開かれたいと願います。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 当時紀元前9世紀中頃、北方の強国アラムは、北イスラエルのあちこちを急襲し、侵略していました。この戦いでどんなことが起こって、アラム王は、どうすることになりましたか。
・8〜12節/
・13〜14節/

2 預言者エリシャがアラムの作戦をイスラエル王に教えていたために、アラムの作戦がことごとく失敗しました。怒ったアラム王は、エリシャを捕らえようと軍隊を送り、アラム軍がエリシャのいる町を夜のうちに包囲しました。翌朝それを見たエリシャの召使である若者は、どんな様子でしたか。もし自分が問題に囲まれたら、どんな状態になると思われますか。
・15節/


3 人は、問題が次々に起きて来て、問題に包囲されるような時、恐れと不安に陥ります。なぜ、問題によって恐れや不安にとらわれるのでしょうか。単に、事件や問題という外部的な環境のせいですか。それとも、何か別のことが大きく関わっているのですか。
・申命記20:1/
・申命記31:6/

4 恐れや不安を与える正体は、外部的な環境や事件や問題ではなくて、その現実を見てどう認識しているかです。つまり不安や恐れは、環境の産物ではなく、人の持っている見方がもたらしているのです。自分の考えや経験が見え方を決定しています。問題が私たちを取り巻く時、私たちは、どうすべきですか。若者は、結局誰に訴えたのでしょうか。
・15節/
・詩篇40:1,使徒22:10/

5 召使の若者の訴えを聞いたエリシャは、何と言って、どんなことをしてくれましたか。それによって、どうなりましたか。それは、何を知ったことになるのですか。
・16〜17節/
・イザヤ41:10/

6 エリシャは、若者に主がともにおられることを見せてくれました。恐れるか恐れないかの違いは、何かがあるかないかの違いではありません。何を見るかの違いです。同じものを見ても、それをどのように見るかの違いです。主を信じる聖徒は、精神的な視覚が必要です。イエス様を信じる私たちは、何を知るようになりますか。
・ヨハネ14:16〜17/
・マタイ28:10/

7 常に否定的悲観的に物事をとらえ、不安や恐れだけを指摘する人がいます。そのような人は、主が守ってくださっておられることが見えていないのです。霊の目で世を見る人は、目の前の現象だけを見てはいません。現象の背後にあることを見ようとし、行動しようとします。その例として、その後どんな事件が起きていますか。そこで教えられていることは何ですか。
・18〜23節/


8 霊的な目が開かれた人は、御言葉の適用に導かれて生きるようになります。北イスラエルの王は、すぐさま憎い敵を打とうとしましたが、それは霊的に目の見えない人の姿です。肉の目は、相手を報復の対象として見ますが、イエス様は、何と言われましたか。あなたは、どのようにしていますか。
・マタイ5:44/


9 私たちの霊の目が開かれたら、人や物事が見えるだけでなく、自分自身も見えるようになります。人は、自分のことは自分が一番よく知っていると思っているので、誰かから忠告を受けたとしても、受け入れません。主の御前にいることを意識するなら、自分がどんな姿であると知るようになりますか。
・エペソ2:1〜5/(参考)
・ヨハネ3:16/(参考)

「命の実を刈り取ろう」

 霊の目をもって自分を見ることを知っている人だけが、自分が神様の中でどれほど大切な存在であるかを知るようになります。イエス様が醜い罪にまみれた自分のために十字架に犠牲になられたからです。霊的に目が開かれると、洞察力や識別力が与えられるようになります。世で生きて、生活するかぎり、様々な問題が起こって来ます。問題自体が問題なのではありません。信仰によって霊的な目が開かれるかどうかなのです。問題に囲まれる時、「私の目を開いてください」祈りましょう。問題に包囲されて恐れと不安に陥る人生ではなく、主に守られて勝利する人生を歩めますように祈ります。気付かされたことや導きを受けたことを分かち合い、祈りましょう。イザヤ41:10。

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