小グループで聖書を学ぶ

3 慰め主イエス様(哀歌1:16〜22)

「心の門を開いて」

 敵のことを恨むことや自分の惨状を嘆くことから、神様に心を向け、自分の背きの罪を悔い改めるようになったエルサレム。しかし、それによってより深い悲しみに落ち込み、涙をながしています。どうしてなのでしょうか。何を必要としていたのでしょうか。私たちも必要としていることです。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 皆さんは、最近どんなことで涙を流されたでしょう。今哀歌の作者は、涙を流しています。涙ぐむというレベルではなく、涙が目からあふれ流れるほどです。神様に心を向けて立ち返り、悔い改めて、心が落ち着いたはずです。なぜ、こんなにも悲しみが深く、涙があふれているのでしょうか。
・16節/
・18〜19節/

2 こんなにも悲しみが深く、涙があふれている理由は、自分を元気付け、慰めてくれる人が遠く離れたからだと言っています。慰めるという動詞の形は、強い意味を表しています。強い慰めを必要としています。慰める者がいないということがどれほど辛く、悲しいことかが表されています。近くにいる者から慰めを受けたいと思ったのですが、結果はどうでしたか。なぜ、そうなのですか。
・17節/
・19節前半/

3 もし、自分が苦しみ、悩んでいる時、側にいて慰め、励ましてくれる友人は遠くにいる、事情があって慰めてもらえないとしたら、どうでしょうか。近くの人に期待してみたものの、期待した慰めや励ましは受けられなかったとしたら、どうでしょうか。そのような時、あなたはどんな思いになりますか。



4 エルサレムは、受けられない者からの慰めを求めました。間違った人に慰めを期待しました。慰める者がいない、誰からも慰めを得られないというその悲しみは深く、その痛みは強いものでした。そこで、どうしましたか。
・20〜22節/
・詩篇142:2/

5 慰めてくれる者が誰もいないという深い悲しみは、激しい痛みを伴っていました。エルサレムは、自分を慰めてくれる者はだれもいないと、呻きながら、神様に訴えました。エルサレムは、慰めがないことを神様に言うべきでした。なぜでしょうか。すでに、神様が預言者を通して言われています。どんな内容ですか。
・イザヤ40:1〜2/


6 この「慰めよ」という動詞も強意形です。神の言葉を伝えて、優しく語りかけて民を強く慰めるように命じておられました。つまり、神様がご自分の民を力強く慰めてくださるということです。慰めを必要としている者に、神様は御言葉を通してやさしく語りかけてくださいます。あなたが、辛く悲しい時、イザヤ40:1〜2のような主の語りかけを聞いたら、どんな思いになりますか。分かち合ってください。
・詩篇119:50/(参考)


7 「その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている」というのですが、なぜ、罪は償われて、罪に代えて祝福を受けられるのでしょうか。続くイザヤ40:3〜6が引用されている新約聖書の箇所を見てみましょう。このことは何のことをさしているのでしょうか。
・イザヤ40:3〜6/
・ルカ3:3〜6,Tテモテ2:6/

8 イザヤの預言は、バビロン捕囚からの帰還という希望を教えてくれただけでなく、さらにその先、救い主が来られることについても教えています。イエス様の十字架によって罪が償われ、救われるという福音です。深い悲しみで慰めを必要としている者は、どうすればよいですか。
・マタイ11:28〜29/
・Tペテロ2:25/

9 哀歌の作者は、私を慰める者はいない、誰からも慰めを受けられないと泣いていましたが、引用箇所は、慰めを必要とする者について何と教えていますか。慰めを受けた者は、どうすることができると言っていますか。
・Uコリント1:4〜7/

「命の実を刈り取ろう」

 神は、どのような苦しみにあるときにも、私たちを慰めてくださいます。私たちが慰めを受けるのは、人を慰めるためだというのです。私たちが苦しみにあうにしても、それは人の慰めと救いのためだと教えています。ですから、患難や問題で嘆き、悲しみ、慰めを必要とする時、慰め主であるイエス様から慰めと安らぎを得ましょう。イエス様の救いには、慰めが伴うからです。そして、人を慰める者となることを願います。学びを通して与えられた気付きや適用を分ち合い、祈りましょう。Uコリント1:4〜5。

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