小グループで聖書を学ぶ
2 あなたがたには関係ないのか(哀歌1:7〜15)

「心の門を開いて」

 カタルシスとは、アリストテレスが『詩学』に書いた演劇用語で、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし、感情を浄化する効果」のことですが、後には「心の中に溜まっていた澱のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味するようになりました。嘆き、悲しんでいる哀歌にも、そのような変化が起こって来ます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 エルサレムは、嘆き悲しみながら、昔の栄光や宝を思い出しました。そして、現在の悲惨な状態とかつての栄光や富を比べています。どんなことを言っていますか。
・7節/
・8〜9節/

2 昔領土も大きく強国だった。財宝があふれ、壮麗な神殿もあった。民の暮らしも豊かで自信に満ちていた。昔は良かった。しかし今は、国が滅亡し、町も神殿も破壊し、財宝も奪われた。民も家族も失われてしまった。捕囚されて行く姿はみすぼらしく、人々が驚くほど落ちぶれてしまった。現代の人々も、昔は良かったと言いませんか。私たちも、昔のことと今を比べて言うことがありませんか。例えば、どんなことですか。
・伝道者7:10/(参考)


3 精神的な打撃も受けています。神殿のことや自分の生活のことについては、どうですか。敵から言われたことについては、どんなことですか。もし自分がそのような状態になり、人々からそんなことを言われたら、どんな思いになりますか。
・10〜11節/
・7〜8節/

4 さらなる嘆き、悲しみを加えたのは、敵たちの嘲り、侮辱です。私たちも、失敗や問題で落ち込んでいる時、自信喪失している時、人から批判され、嘲られるのはきついです。精神的タメージは大きいです。でも、思い出してみましょう。イエス様が十字架にかけられた時、イエス様はどんな仕打ちを受けていましたか。イエス様の態度はどうでしたか。
・ルカ18:32/
・Tペテロ2:23/

5 エルサレムは嘆き、悲しむだけでなく、呻いています。うめくだけで、敵の嘲りに対抗もしません。いや、できません。うめくとは、言葉も出ない、「うう〜」と声だけ出して、苦しんで、嘆いています。でも、この言葉にならない呻き声が、どこに向かって上げられて行きますか。そして、三人称から一人称になっています。その内面にどんな変化が起きて、何をしているのですか。
・8, 9, 11節/
・ダニエル9:3/(参考)

6 これまでは、過去の自分と比べては嘆き、悲しんでいました。敵から受けた嘲りや蔑みを思っては嘆き、悲しんでいました。しかし、今や、神に心を向けて嘆き、呻きながら祈りました。ただもう、自分を顧みてくださいと素直に祈っています。自分のありのままを訴えています。心のうちの悲劇を神に向かって吐き出しています。このように祈ることで、嘆き、悲しんでいた苦しい心が、どのように変化する可能性がありますか。
・詩篇55:17/(参考)
・詩篇40:1〜2/(参考)

7 自分の心の中だけの嘆きや悲しみは、怒りや憎しみになることもありますが、主への祈り、訴えならば、恐れや絶望を浄化させてくれます。このように祈ることで、心におりのように溜まっていた嘆きや悲しみの心が解放されて、浄化されて行くことになります。このような祈りの経験がありますか。あれば、分かち合ってみましょう。



8 嘆き悲しみが、他者への怒りや自己憐憫に留まるなら、それは寂しい、残念なことです。しかし、主に祈り、訴えることで痛んだ心が取り扱われ、癒され、希望へと心が開かれて行きます。このような祈り、訴えの後、哀歌の内容ががらりと変わります。どのような内容に変化していますか。
・12〜15節/


9 何と、道行く人々に、自分の惨状の原因を知らせています。主が私を悩ませ、苦痛を与えたと言います。神が、ご自分の民の背きに対してわざわいをくだされたのだと受け止めました。この時、道行く人々に「あなたがたには関係がないのか」(12節)と言っています。これは何を言っているのですか。イエス様の十字架の場面も参照しましょう。
・マタイ27:39〜44/

「命の実を刈り取ろう」

 道行く人々に対して、主に背いて懲らしめを受けることは、「あなたがたには関係がないのか」と言って、悔い改めを促していました。イエス様の十字架は、「あなたには関係がないのですか」と問うています。私たちの背きの罪のためにイエス様が十字架にかかってくださいました。それゆえに、イエス様を信じる私たちは罪赦され、救われたのです。罪と滅びから解放され、新しい日が始まりました。ですから、私たちは、主に祈り、御前に自分の嘆きや悲しみを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。学びを通して与えられた適用を分ち合い、互いのために祈りましょう。詩篇142:2。

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