小グループで聖書を学ぶ
6 滅びうせなかったのは(哀歌3:1〜24)

「心の門を開いて」

 神は果たして公平なのか、なぜ神は沈黙されるのか、どうして私を見捨てているのかと言って、神様に対して失望し、苦しむ聖徒がいます。実は、ダビデやエリヤ、ヨブ、そしてエレミヤも、一時期そうなりました。なぜ、苦悩し、神に絶望したのでしょうか。そこから、どのようにして転換できたのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 エレミヤは、エルサレムに臨む神の怒りとバビロンによる破壊を預言し、悔い改めを説いていました。そう言いながら、実際にバビロンによって攻められ、籠城して疲弊し、滅ぼされて蹂躙され、捕囚にされたのを目の当たりにしたエレミヤは、どのようになってしまい、神様に対して、何と言うようになりましたか。
・1〜16節/
・/

2 「主は…、主は…」と続く主語は、原文には出てきません。動詞の形から、主語が3人称の単数だと分かるだけです。英語訳では「彼」と訳されています。神様に徹底的に従って来たエレミヤも、エルサレムのひどい惨状を見て、恨みと不平を神にぶつけています。私たちも、次々と問題に出会い、ものごとが思うように行かない時、神様どうして私を助けてくれないのですか、なぜ沈黙されているのですか、私を見捨てられたのですかと言って、失望し、苦しみ、憂うつになる時があるでしょう。そのような例があれば、分かち合ってください。
・/


3 このように神様を恨むならば、ますます失望の泥沼に沈みます。以前の状態を思い出して、何と言っていますか。その思い出し方に、ある傾向が見られますが、どんなことですか。
・17〜20節/
・/

4 以前の状態を思い出して、私は平安から見放され、幸せを忘れてしまったと嘆き、かつて神から受けていた誉れと望みも消えうせたと落胆しています。過去に受けた苦い思い出、苦難ばかりを思い出しています。失望する時に訪れるのが過去の苦しい記憶です。それも、悪い記憶、マイナスの思い出です。そして、絶望してしまいます。そんな傾向が、私たちにもなかったでしょうか。思い当たることがあれば、話してみてください。

5 絶望の泥沼に陥ると、悪い記憶ばかり色々と思い出します。思い出さなくてもいいことまで思い出してしまいます。思い出されるたびに、心は重く沈み込みます。エレミヤのような素晴らしい信仰の預言者でも、そうなるのですから、私たちも、絶望の泥沼に陥り、心が沈み込む時があるのでしょう。そんな時、どうすればよいでしょうか。
・哀歌2:19/(参考)
・エゼキエル36:4/(参考)

6 エレサレムの滅亡と破壊、人々の蹂躙と捕囚を思い出しては絶望に陥る中で、エレミヤの思いに変化が起こりました。転換点と言える変化が生じます。どのように変化しましたか。
・21〜22節前半/


7 19,20節の「思い出す」は、思い出すだけですが、21節の「思い返す」とは、思い出して考えることを意味する別の言葉です。思い出して、積極的に自分で考えます。思い浮かんで来ることを自分で考えて、その意味や意義を考えてみるのです。問題や患難に出会ったことを思い出すだけでなく、それについて考えるとどうなりますか。引用箇所からみてみましょう。
・詩篇143:3〜6/


8 エレミヤは、思い出したことにどんな意味があるのか考え、尋ねました。そして、神様がこうされたのには意味があるということまで思い至りました。そして、悟ったこと、理解したことは何ですか。
・22節後半〜23節/


9 確かにエレサレムは滅んでしまったが、神の民は滅びていないと悟りました。自分たちが滅びうせなかったのは、主のあわれみが尽きないからだと理解したのです。神様に希望を持つようになったのです。覚めるのが苦しかったが、朝ごとに新しく感じられ、神様の真実さは素晴らしいと告白するようになりました。こんな体験があったら、分かち合って、恵みをともにしましょう。


「命の実を刈り取ろう」

 神様は、大きなあわれみのゆえに、イエス様を私たちの罪の代わりに十字架に渡され、死からよみがえらせてくださり、それによって、信じた私たちを新しく生まれ変わらせ、生きる希望を与えてくださいました。苦難や問題に出会う私たちに必要なことは、苦しい現実のために沈み込むのではなく、その問題を信仰で考えてみることです。信仰で生きる人生には、希望があります。どんな絶望的状況にあっても、「私には希望があります」と言うことができることを願います。適用を分ち合い、祈りましょう。Tペテロ1:3。

戻る