小グループで聖書を学ぶ
10 終わりが来た(哀歌4:11〜22)

「心の門を開いて」

 何事にも終わりがあります。2年間にわたるバビロンによるエルサレム包囲は終わり、BC586年にエルサレムは陥落します。その時の様子はどうだったのでしょうか。それには、どんな意味があるのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 エルサレムがバビロン軍に包囲され、籠城が2年間も続き、町の中は凄惨を極め、エルサレムの滅びが迫っていました。そのような中で、町の人々は、どう思っていたのでしょうか。それは、過去どんなことがあったからですか。
・12節/
・U歴代32:5, U列王19:35〜36/(参考)

2 城壁は幾たびか補強され、以前アッシリア帝国に囲まれた時、助かったことがあったので、エルサレムが陥落することはない、大丈夫だと勝手に思い込んでいました。でも、大事なことを忘れていないでしょうか。何を忘れていますか。1番の関連箇所を参照しましょう。私たちは、問題に出会った時、ユダの民のように、安易に大丈夫だとしたり、過去のことを都合よく受け止めたりすることはないですか。
・イザヤ22:11,/
・U列王19:32〜33/

3 預言者や祭司と言った指導者たちは、エルサレムは大丈夫だ、バビロンに滅ぼされることはないと主張しました。自分たちに従わない者に対してどうしましたか。悔い改めて、バビロンに降参を勧めていたエレミヤにはどうしましたか。
・13節/
・エレミヤ26:7〜9/

4 かつてアッシリアに包囲された時助かったのは、主が働いてくださったからです。エルサレムを強くしたのは、門や壁ではなく主であることに、町の人々は気付いていませんでした。主に頼らずに、何を頼っていましたか。その結果彼らはどうなりましたか。「救いをもたらさない国」とは、何ですか。
・17節/
・イザヤ30:7/(参考)

5 エジプトは単に頼りにならないということだけではありません。神の民にとって、エジプトは、奴隷の境遇から大変な思いをして抜け出して来たところです。もう戻ってはならないところ、神様のいないところ、罪の囚われ人となるところ、そういう霊的意味があります。あなたにとってエジプトは何ですか。使徒パウロは、回心前の自分に戻らないために何と言いましたか。
・ガラテヤ6:14,17/


6 主に頼らなかったエルサレムの人々は、ダビデ王の子孫である当時のユダの王ゼデキヤに対して、どのように期待しましたか。しかし、エルサレムが陥落する時、期待された王はどうしましたか。同盟を結んでいたエドムは、エルサレムが陥落する時、どうしましたか。
・20節, U列王25:4〜7/
・21節, オバデヤ1:8〜11/

7 ゼデキヤ王は、民を捨てて逃げました。エドムは、ユダを裏切り、敵と一緒に略奪しました。人を信じて失望させられたり、頼りにしていたのに裏切られたりということが多い世です。苦難の中で私たちが頼みとするのはどなたですか。頼れる理由は、何ですか。
・ピリピ3:3/
・ルカ24:20〜21前半/

8 18〜20節は、エルサレムが陥落する時の混乱の様子を描いているようです。18節では、どんなことが繰り返され、強調されていますか。籠城が2年間も続いて、どのように思っていたのでしょうか。苦しいことが続くと人はどう思うでしょうか。主はエルサレムが陥落して捕囚になる人々に対して、何と約束しておられますか。
・18〜20節/
・22節前半,エレミヤ29:10〜11/

9 苦難の中で、終わりがないと思うほど苦しいことはありません。希望を持つことができないでしょう。しかし、長い包囲と籠城も終わりました。ユダが滅びて、人々は捕囚となります。捕囚になることだけでしたら、忍耐できないでしょう。その捕囚にも終わりがあり、後の祝福も預言されていました。約束の祝福を手に入れるためには、何が必要ですか。
・ヘブル10:36, ヤコブ1:12/

「命の実を刈り取ろう」

 トンネルは長くても必ず終わりがあります。私たちが経験する苦難も、必ず終わりがあります。ゼデキヤ王について「油そそがれた者」(20節)と言われていますが、この油そそがれた者をギリシャ語では、キリストとなります。やがて、ダビデ王家につながる者としてイエス・キリストがお生まれになります。ルカ2:11。そして、イエス様の十字架の犠牲によって人々を罪と滅びから解放してくださいます。イエス様こそ私たちを贖ってくださると望みをかけることができる幸いを感謝します。学びを通して与えられた気付きや導きを分かち合い、互いのために祈りましょう。ルカ24:20〜21a。

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