小グループで聖書を学ぶ
12 主よ帰らせてください(哀歌5:19〜22)

「心の門を開いて」

 信仰とはいったい何でしょうか。大抵の人が信仰と言うと、自分が主体になって何かを信じることだと思っています。そのような信仰なら、人の選択と決心でよいことになります。自分の思い通りになれば喜び、うまく行かなければ背を向けます。哀歌を通して、私たちの信仰とは何かということを知るようになります。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 預言者エレミヤが、このままでは国が滅びる、悔い改めてバビロンに降伏するようにと主なる神の言葉を伝えても、その内容が気に入らないとしてしりぞけ、自分たちの思うようにバビロンに敵対し、ついに滅びました。自分が主体となる信仰、自己中心性が妨げになったということです。哀歌の詩人は、喪失感について祈った後で、どんな祈りをしましたか
・19節/
・詩篇102:27,伝道3:14/(参考)

2 19節は、主のあわれみと愛は変わらないという告白です。たとえすべてを失っても、環境がどう変わっても、主なる神は神の民から失われません。都は廃墟になっても主の栄光は永遠に続き、希望はなくなりません。信仰の主体は、主なる神です。神の民は、神の愛とあわれみによって生きて行く者でした。私たちの信仰はどうですか。
・ヨハネ15:16/


3 神の民が祈って思い出したのは、主の御座でした。人生の基盤がすべて失われた時、御座に目を向けたのです。そこには私たちの悲惨、痛みを覚えて、心に留めてくださる主がおられるからです。御座におられる主に何と尋ねていますか。2つの動詞は、ともに未完了形です。主にどうしてほしいと訴えているのでしょう。
・20節/


4 主は神の民を完全に忘れたり、捨てたりされません。ですから、主の前で嘆くことができて、泣いて訴えることができます。神の民が壊れた自分の人生を回復する道は、父のみもとに帰る以外にありません。それで、何と祈っていますか。それは、主と元の関係に戻りたいと願っているのですが、主との間にどんな契約が結ばれていたのですか。
・21節/
・エレミヤ11:4~5/

5 民をエジプトの奴隷から救い出してくださった主なる神は、民がご自分に聞き従うなら民は主の主なり、ご自分が民の神となり、約束の地を与えると約束され、契約を結ばれました。主のみもとに帰りたいのであれば自分で帰ればいいのに、どうして主のみもとに帰らせてくださいと言っているのですか。主との契約がどうなったかを調べてみましょう。なぜ、そうなったと思いますか。
・エレミヤ11:10〜11/
・エレミヤ31:18/

6 神の民は、主との契約を忘れて、周りの国々の影響を受けて偶像崇拝に陥り、罪の生活をするようになりました。契約を破って、滅びてしまいました。もう彼らには、契約に戻る力も権利もありません。それで「新しくしてください」と願っています。このことについて、主はどんな約束を与えておられましたか。それはどんな形で実現されますか。
・エレミヤ31:31〜34/
・ルカ22:20/

7 新しい契約は、やがてイエス・キリストが世に来られ、人々の罪を背負って十字架に犠牲となられることによって実現されます。神の民は、主に背を向け、御言葉に聞き従わず、主との契約を破りました。神との関係を拒否する神への反逆でした。この深刻な罪を犯していた人間に対して、神様はどうしてくださいましたか。十字架上のイエス様のことばと、20節を比べてみましょう。
・Tペテロ3:18/
・20節,マタイ27:46 /

8 苦しいことが続けば主に願い頼るが、うまく行けば自分の力と思い、主に従うことをせず、自分勝手になりました。思い通りに行かなければ背を向けました。自分が主体の信仰は、ご利益信仰と変わりません。そんな神の民に対して主は一貫してどうしてくださいましたか。このような主なる神様を知って、どう思いますか。
・ホセア11:1〜8/


9 イエス・キリストの十字架による新しい契約は、人の業は何も入っていません。ただ一方的な主の恵みとあわれみよる新しい契約です。すべてを失われ、すべてを放棄されたのが、イエス様の十字架です。完全な滅びの場です。その後、どうなりましたか。
・ローマ4:25, ヘブル8:6/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、死から復活されて新しい契約を成就されました。私たちは、このイエス様の救いによって罪赦され、新しくされた者です。この救いは、ただ一方的な神のあわれみと恵みのゆえです。ですから、この恵みに応答して主のみもとに帰り、主とともに生きるのです。学びを通して与えられた適用を分ち合い、互いのために祈りましょう。エペソ2:4〜5。

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