小グループで聖書を学ぶ
1 恵みと平安がありますように (エペソ1:1〜2)

「心の門を開いて」

 人は、色々な疑問を持って生きています。なぜ私はここに生まれたのだろう。どうしてこのような状態の中にいるのか。どうやってこの複雑な社会で生きて行けばいいのだろう。このエペソ書は、そうしたことに答えてくれています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 パウロが書いた13通の手紙のうち、牢獄の中で書かれた4通が獄中書簡と呼ばれています。その1つがエペソの教会の人々に書いたエペソ人への手紙です。使徒パウロは、今ローマの牢獄の中に閉じ込められている状態です。このような状態を彼はどのように理解していたのでしょうか。手紙の挨拶の部分からどううかがえますか。
・1節前半/


2 獄中生活は重苦しいし、不当な扱いも受けたでしょう。それでも、神のみこころの中にあることと受け止めたのです。パウロの宣教師としての生涯は、苦難と迫害の連続でした。それでも、パウロはぶれることなく宣教師の働きをまっとうしました。それは、その使徒としての働きが神のみこころによることだったからです。私たちも、仕事や家庭生活において、神のみこころによると取り組んで行くならば、どうなりますか。
・Uコリント11:23〜28/
・使徒9:15〜16/

3 パウロは、牢獄の中で諦めて、失望していたわけではありません。信じる者に注がれる天国の祝福というものを見出したのです。しかし、一般的に、「神のみこころ」と言うと、諦観的に使うことが多いようです。自分が望まない状況にあることについて、「神様のみこころだから仕方がない」などと半ば諦めの境地で受け止めるのです。あなたは、そのようなことがありませんでしたか。



4 エペソは、世界7不思議の1つであったアルテミス神殿で有名であり、経済的にも繁栄し、欲望と堕落に満ちた都市でした。その中で生きるクリスチャンについて、何と言われていますか。手紙の受け手に対して、パウロは何と表現していますか。疑問はないですか。
・1節後半/


5 聖徒と言っても、彼らが罪のない完全な者たちという意味ではありません。聖徒ハギオスの原意は、区別された、異なるものという意味です。「キリスト・イエスにある」こと、つまりイエス様の十字架を信じて救われているので、神様のものとして区別され、神様のものは聖いということで聖徒だとされたのです。私たちは、この世に住んでいるけれども、同時に神に属する者です。自分がそのような存在だと言われて、どう思いますか。
・Tコリント6:19〜20/


6 「忠実な者」とは、信仰を実践する者という意味です。私たちは、創造の神を信じており、御子イエス様が私たちのために十字架に死なれたことを信じています。この信仰が、私たちを忠実な者へ造り変え、新しい人へ変化させ始めるのです。信仰によって忠実な者となった私たちに、何か約束されていますか。私たちにとって最も切実なものは何であると教えていますか。
・2節後半/


7 恵みはただであたえられるものであり、平安は与えられたものを享受することです。恵みは祝福の内容であり、平安は祝福を味わう状態です。恵みは祝福の開始であり、平安は祝福の結果とすることができます。この恵みと平安は、どこから来ると言っていますか。それは、どういう意味ですか。
・2節前半/


8 「恵み」とは、神様が私たちに与えてくださるすべてのことです。そして、最大の恵みは、イエス・キリストです。値なしにくださった神様の贖いの恵みです。私たちは、神のすべての恵みで生きていると言っても過言ではありません。それなのに、私たちは、恵みのうちに守られていることを知らず、どれほど多くの危機から保護されているか分かっていません。恵みに対してどのように生きなければなりませんか。
・Tコリント1:4/


9 「平安」とは、神様との関係での平安です。救われる以前は、罪によって神様に敵対していたために平安がありませんでした。そんな私たちのためにイエス様が和解のいけにえとなり、十字架の死をもって神様との平和を回復させてくださいました。この神との平和を享受すると、人との平和も享受できるようになります。もし私たちが困難な問題に出会ったなら、まずどうすべきですか。
・ピリピ4:6〜7/

「命の実を刈り取ろう」

 パウロは、神のみこころによって、牢獄の中で、恵みと平安を覚えながら、この手紙を書いています。私たちも、「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祝福の挨拶を受け取りました。きょうの学びと通して気付いたこと、示されたことを分かち合いましょう。民数記6:24〜26。

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