小グループで聖書を学ぶ

7 救われる目的(エペソ2:9〜10)

「心の門を開いて」
 
 人は誰でも、幸いな人生を歩みたいと思っています。人々はみな残りの人生を価値あるものとしたいと願っています。しかし、救われた目的が何かということが分からないならば、救われた後でも、新しい生き方をしないで、以前と同じ生き方をしてしまうでしょう。価値有る人生を生きるために、救いを受けた目的を学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 1〜6節までは、以前の私たちがどんなに悲惨な状態だったかということと、イエス様の十字架と復活によって救われたことの素晴らしさが、対比して強調されていました。なぜ、そのように記されたのでしょうか。7節の書き出しを見ると、「それは」という接続語で始まっています。その対比された目的とは、何ですか。
・7〜8節前半/
・5節/

2 恵みによって救われたことが、5,7,8節で繰り返されています。恵みというのは、ある資格を持って何かを達成した人に施されるものではありません。何の資格もなく、何の功績もなく、むしろ失敗して挫折して、失望して、罪のために悲惨な状態にいる人に与えられるものが、恵みだということです。つまり、何もない人が何もしていない人が、余りにも大きな祝福を受けたということですが、それは何によるのですか。
・Tコリント6:20 /
・マルコ10:45/

3 イエス様を信じて救われた人は、だれでもこの恵みを受けることができます。人に認められない、失敗してばかりだとしても、救いの恵みを受けています。救いの恵みを受けたにもかかわらず、自分は価値がない、自分はだめだと思っている人がいます。救いの恵みの素晴らしさを知ったら、実際に私たちの価値観が変わり、生き方が変わります。そうすると、勉強にも仕事にも、影響して来ます。人間関係も家庭生活も、変わって来ます。福音に根ざして考え、行動するようになります。救いの恵みにどう応答しておられますか。



4 イエス様の十字架と復活による救いの恵みが、人の知恵や力によるのでなく、神の恵みであることを強調するために、何と表現されていますか。
・8節後半〜9節/


5 イエス様を通して与えられた救いが、神様からの贈り物だと言っています。神様が罪の悲惨にある人々をあわれんで、御子イエス様を世に送ってくださったこと自体が大きな贈り物です。イエス様が来られなかったら、今も私たちは、罪の奴隷であって、サタンに支配されて、滅び行く者でした。神の御子が世に来られたのに、神の民だと誇っていたユダヤ人は、イエス様を受け入れず、妬んで、十字架にかけてしまいました。かれらの姿をどう思いますか。あなたは無関係ですか。
・Tペテロ2:24/
・Tヨハネ1:8/


6 私たちの罪の罰を身代わりに十字架に負ってくださったのですから、私たちもイエス様を十字架にかけたのです。イエス様を十字架につけて殺した犯人は、他の人ではなく、自分自身です。罪の値を支払うためには、誰かが代わりに血を流さなければなりませんでした。だから、イエス様が私たちの罪の代わりに十字架にかかり、血を流されたのです。神様から救いのプレゼントを受けるためには、どうすることが必要ですか。
・Tヨハネ1:9/
・ローマ10:9〜10/


7 私たちの罪の清算のために、イエスの十字架の死という代価が支払われました。私たちは、救い主の恵みという余りにも大きなプレゼントを受けました。救われた後、恵みを受けた後の私たちの生活が重要となります。私たちが救われた目的は、何ですか。
・10節/


8 クリスチャンが救われた目的は、良いことをするためです。救われた者は、良い歩みをするために、神様の栄光をあらわすために新しく造り変えられた者です。「作品」と「造られた」という言葉は、どういうことをあらわしていますか。自分をどういう者だと見るべきですか。
・Uコリント5:17, コロサイ3:10/
・イザヤ43:4/

9 イエス様を信じた者は、生まれ変わったのです。クリスチャンは、行動や考えの変化、生活の変化によって救われたのではなく、イエス様の十字架を信じて救われたから、価値観や行動が変わり、生き方が変化するのです。これが重要なことです。造り変えられるのは、どのように生きるためですか。良いこととはどういう生き方ですか。
・イザヤ43:7/
・Tコリント10:31,マタイ5:16/


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、神の栄光のために造られました。イエス様が神様の御心を成し遂げられたように、私たちもすべてのことを通して神様の栄光をあらわすために生きて行くのです。イエス様の十字架と復活という大きな恵みによって救われました。ですから、私たちは、救いの恵みに応えて、神の作品として神の栄光をあらわして生きるのです。学びを通して気付かされたこと決心したことを分かち合いましょう。         (エペソ2:9〜10)

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