小グループで聖書を学ぶ                                      
12 召しにふさわしい歩み (エペソ4:1〜10)

「心の門を開いて」

 私たちは、つねに様々な人間関係の中で生きています。人間関係は、私たちを助け、喜びを与えてくれるものですが、問題を生じさせ、私たちに痛みや悩みをもたらすこともあります。聖書は、人間関係について色々なことを教えています。今日の箇所もその一つです。どんなことが教えられているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 1節に出て来る「召された」という表現は、イエス様を信じて救われたことです。イエス様に救われた聖徒たちが、召しにふさわしく歩む姿とは、どんな姿ですか。徳目のようなことが四つ記されています。それをあげてみましょう。
・1〜3節/


2 謙遜は、最も大切なクリスチャンの徳目ですが、どんな姿ですか。謙遜と高慢を比べる時、それぞれ人間関係にどんな影響を与えると思いますか。
・ピリピ2:3/
・箴言18:12,11:2/

3 謙遜は、人々を結びつけ一つにしますが、高慢は、人の間に破壊と分裂を引き起こします。次の徳目、柔和は、柔らかい心であり、親切な心です。柔和な人とは、自分の心をうまく調節して治めることができる人です。箴言には、最も愚かな人は怒る人だとあります。人を正そうとしたり、仕事を頑張ってしたりする時、柔和さがなければ、相手や周りの人にどのような影響を与えることになりますか。



4 、柔和さがなければ、人を正そうとしても、人の心に痛みや非難された思いを残します。仕事を頑張ってしても、周りに益を与えないでしょう。三つ目の寛容という原語は、忍耐とも訳されます。大目に見てやろうなどというのは、寛容ではありません。聖書の教える寛容とは、人の受け入れがたい姿に耐えることです。イエス様の姿を見て、あなた自身、寛容についてはどうですか。
・Tペテロ2:23/


5 人は、だれでも間違いや罪を犯してします。ですから、愛をもって互いに忍び合うことが必要です。互いの失敗や間違いを忍び合い、容認し合うことがない場合、どのようになり易いですか。失敗した経験を分かち合いましょう。
・マタイ7:1〜4


6 教会とは、多様な人々が集まったところです。考えも違うし、生活習慣も違うし、価値観も異なります。そのような人々が集まって、同じ価値観のために一つになって人生を生きることは、非常に難しいことです。なぜ一つとなれるのでしょう。その根拠となるものが列挙されています。七つあげてみてください。同意できるなら、どうしなければなりませんか。
・4〜6節/


7 一つとなるという時、誤解されるのは、人が同じになければならないと考えてしまうことです。それでは、様々に違う人が一つになれるはずがないと考えてしまいます。今日の箇所では何と言っていますか。それは、どういう意味ですか。
・7節/
・Tコリント12:7〜9/

8 人が集まれば、言語が違い、文化が違い、生きてきた生い立ちが違い、顔付きが違い、生活の環境が違い、学びが違い、職業が違い、世代も違います。しかし、イエス・キリストの中では一つです。この多様性の中で一つとなることが、体のたとえで教えられています。じっくり読んで、感じるところを分かち合いましょう。
・ガラテヤ3:28/
・Tコリント12:14〜27/

9 8〜10節は、詩篇68:18の引用から、イエス様の十字架と復活、昇天のことを強調しています。強調されている対照的な表現に目を留め、なぜ、イエス様の姿や福音が、記されているのか、参照箇所も読んで考えてみましょう。
・8〜10節/
・ピリピ2:6〜9/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様は赤ちゃんとして世に下られた時から、さげすまれ、悲しみを経験され、苦しみを受けられました。その下ることは、十字架の死にまでも下られました。しかし、三日目に十字架の死からよみがえり、天に昇られました。これによって、救い主イエス様を信じる者は、罪赦され、新しい命を与えられ、賜物を受け、主に用いられる人生へ歩む者となります。ですから、私たちは、イエス様に救われた召しにふさわしく歩まなければならないのです。私たちも、御霊によって一つとなりますように、変えられ、用いられたいです。今日の学びを通して、気付かされたこと、悔い改めたこと、適用に導かれたことなどを互いに分かち合いましょう。Tコリント12:25〜27。

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