小グループで聖書を学ぶ
24 主に愛され、主を愛する (エペソ6:23〜24)

「心の門を開いて」

 エペソ書は、わずか6章の短い書簡ですが、信仰とはどういうものか、教会とは何か、そしてイエス様を信じた者は造り変えられるという福音の真理を教えてくれました。最後の祝福の所を学びます。獄中からの手紙です。単なる挨拶ではありません。ここから大切な意味を発見することができます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 まず、「父なる神と主イエス・キリストから、平安が聖徒たちにあるように」と平安の祝福がされています。聖徒たちが、困難や問題で暗澹たる思いの中で、恐れと不安の只中にあるなら、まず必要なのは、神様からの平安です。聖書は、聖徒たちが暗澹たる思いになって平安を失ったなら、どうしなさいと言っています。
・23節/
・ピリピ4:6〜7/

2 平安という言葉エイレーネとは、結び付けるという言葉から派生しています。真の平安は、私たちが神様と結び合わされた時に与えられたものだということです。ですから、サタンの誘惑によって神から離れ、罪に陥り、御言葉を忘れるならば、主にある平安を失ってしまいます。そんな私たちのために、十字架にかかってくださった救い主イエス様は、平安を必要とする私たちに対して、どんな約束を言ってくださいましたか。
・ヨハネ14:27/
・ヨハネ16:33/

3 もう1つの祝福は、信仰に伴う愛です。どうして信仰に伴う愛と言っているのでしょうか。世の中では、愛という言葉がたくさん使われています。多くの人々が愛すると言っています。世にあふれる愛と比べて、信仰に伴う愛はどう違うのですか。
・23節/


4 世にあふれる愛は、自己愛や、見返りの愛、要求する愛、奪う愛という非常に肉的で、独善的な愛でいっぱいです。イエス様を救い主と信じる愛は、どうして与えられたものですか。なぜ、愛と言うのですか。
・エペソ2:1〜5/
・ヨハネ3:16/

5 救われる以前の私たちは、罪とサタンに支配されて、肉の欲の中に生き、行き着く先は滅びでした。そのような境遇にあった私たちを神様はあわれんで、御子イエス様を世に送ってくださり、私たちの身代わりに十字架の犠牲とされました。イエス様を信じた信仰によって、このような愛に与った私たちは、どうするようになると言っていますか。
・Tヨハネ4:19/


6 神様の祝福を受け、愛を受けたのに、私たちは祝福の言葉と愛の言葉を惜しんでいないでしょうか。祝福と愛の言葉は、他の人に祝福と愛の言葉を言う私たち自身を生かします。言葉が感情の鍵となり、一言が人生を楽しくしたり、悲しくしたりします。一言が聞く人に勇気を与え、落胆させます。引用個所は、どんなことを考えさせますか。
・マタイ15:18/
・ヤコブ3:9〜10/

7 最後に、イエス様を変わらずに愛する人に、恵みがありますようにと祝福しています。信仰があると言いながら、愛がないというのはなぜかと点検してみると、イエス様を信じていても、イエス様を愛しているか、ということに行き着きます。多くの聖徒たちが、イエス様を信じると告白しますが、イエス様を愛するとは告白しません。「主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように」という祝福を読んで思うことは何ですか。
・24節/


8 自分はイエス様を愛しているのだろうかと自問自答すれば、まあまあ愛しているのでは、一所懸命頑張っているし、まじめに信仰生活をしているから、などと考えるでしょう。しかし、イエス様がエペソ教会に向けた手紙には、聖徒たちの労苦と忍耐の賞賛がありますが、厳しい非難もあります。なぜですか。理由は何だと教えられていますか。
・黙示録2:1〜5/


9 エペソ教会の聖徒たちは、一生懸命労苦し、忍耐して頑張ったけれども、いつの間にかイエス様を愛する「初めの愛から離れてしまった」のです。私たちも、いつしかこの落とし穴に落ちていないでしょうか。復活されたイエス様は、使徒ペテロに対して尋ねたことはどんなことですか。あなたは、どう答えますか。
・ヨハネ21:15〜17/

「命の実を刈り取ろう」

 復活されたイエス様がペテロに対して「あなたはわたしを愛しますか」と質問された時、この場面だったら、「あなたは福音を伝える力があるか、迫害に耐える覚悟があるか、再び裏切ることはないか」など問うべきところでしょう。しかし、イエス様は、3度「あなたはわたしを愛しますか」と繰り返し、愛を確認しています。なぜでしょう。その愛の中に使命があり、その愛の中に力があるからです。イエス様を愛する愛があるなら、献身しても喜びがあるからです。今日の学びを通して受けた、励まし、導き、悔い改め、決心などを分かち合いましょう。Tペテロ1:8。

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