小グループで聖書を学ぶ

7 主が私のうちに生きておられ(ガラテヤ2:17〜21)

「心の門を開いて」

 信仰によって義とされるというが、その後も罪を犯しているじゃないか、義などとなっていないじゃないかという議論が、宗教改革の時からあります。今日でも、同じことを思い、揺れ動くクリスチャンもいます。初代教会にもありました。それについて、今日の箇所では、どのように教えているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 16節で「イエス・キリストを信じることによって、義と認められる」と繰り返され、強調されていました。ところが、17節では、「しかし」と言って、パウロは、重要な質問を投げかけています。これは、今日のクリスチャンも陥るところです。どんな質問ですか。
・17節/


2 クリスチャンは、イエス様を信じる信仰によって義とされ、罪の赦しを受けています。しかし、ある時、こんな自分が本当に罪赦されたのだろうか、こんな罪人は救われていないのでは、もっと正しくなければ義人とは認められないと思うのです。時々自責の念にかられ、ひどく落ち込み、何かを守ろうとして守れない罪悪感に陥ります。あなたは、そんなことはありませんでしたか。どうして、そんな思いになりましたか。



3 私たちが救われ、罪赦されたのは、私たちが何かを守ったからとか、何かができたからではありません。私たちは、どういうことによって義と認められ、罪が赦されているのですか。聖書は、何と教えていますか。
・16節,エペソ1:7/
・ローマ3:24, 8:2/

4 パウロは、私たちがイエス様を信じて義とされた時、それまでの私たちがどうなったかについて、衝撃的な表現をしています。それは、どういう意味ですか。「十字架に付けられた」とは、どういうことですか。
・19節/
・ローマ6:6〜7/

5 十字架とは、死刑の道具です。ですから、イエス様が十字架にかけられた時、私たちも一緒に十字架刑にされ、死んだということです。イエス様を信じた時に私たちの古い人は死んだということです。当時のユダヤ主義の聖徒たちは、自分がイエス様の十字架とともに死んだということを知りませんでした。それで、イエス様を信じながらも自我で生きており、律法を守ることで義になろうとしていたのです。あなたは、自分の古い人が十字架に死んだことを意識していましたか。イエス様の命令をどう受け止めていましたか。
・ルカ9:23/


6 人は、イエス様の十字架と一緒に古い自分が死んだということを聞いていても忘れています。いや、十字架に死ぬことを拒んでいます。平安を得たい、祝福を得たい、天国への命を得たいというだけで、十字架と一緒に古い自分が死ぬことを拒むのです。自分の欲、自分の願い、自分の計画は望むのですが、神様の御心、ご計画を知ろうとしません。イエス様と一緒に十字架にかけられた強盗の話しを読んで、思うところを分ち合いましょう。
・ルカ23:39〜43/


7 イエス様を信じて義とされたということには、二つの過程があります。一つは、義認ですが、もう一つは聖化です。義認は、神様が判定してくださるただ一度のことですが、聖化は、聖霊の働きで一生続くものです。ですから、今日の箇所で、続けてどう言っていますか。それは、どういうことを言っているのですか。
・20節/
・ローマ6:8/

8 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」とは、イエス様がお客としてではなく、所有者、主人として私のうちに住んでくださることです。イエス様は、私の中に主人、主権者として住んでくださいます。そうすると、救われた者は、どのようになるのでしょうか。
・ローマ6:4/(参考)
・Uコリント5:17,コロサイ3:10/(参考)

9 私のために十字架に死なれるほどに私を愛してくださる神の御子が私のうちに生きておられるのです。多くのクリスチャンが、そのことを忘れて自分の力で生きようとして、戸惑い、悩み、恐れます。古い人が生きていた時の自分は、何でも自分中心、肉の思いで生きていましたが、信じて救われた後は、イエス様が自分の中に生きておられるので、瞬間瞬間イエス様に頼り、イエス様に相談することができます。どんな生活になりますか。あなたは、それを知ってどんな生き方をしますか。

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様を信じた時、古い自分は十字架とともに死んだのだということを意識してください。イエス様が内に生きておられるというのが、どんな素晴らしいことか、どんなに力あるものか、実感して行くのが、信仰生活です。学びを通して導かれた気付きや決心を分ち合い、互いのために祈りましょう。ガラテヤ2:19〜20。

戻る