小グループで聖書を学ぶ
15 真理はあなたがたを自由にします(ガラテヤ4:21〜31)

「心の門を開いて」

 アレゴリーという比喩の一種があります。諷喩(ふうゆ)とか寓喩(ぐうゆ)とか言いますが、例えだけを示し、例えられているものが何かを推測させます。イソップ寓話が有名です。24節で比喩と訳された原語が寓意、アレゴリーの語源になっています。一件難しく見える箇所ですが、分かり易くするために比喩が用いられています。題材を通して、比喩の示すものを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ユダヤ人に惑わされて、イエス様を信じるだけでなく律法を守れなければ救われないと思っている人たちに、救いが律法によるのか信仰によるのかを説明するために旧約聖書の話が寓意(比喩)として引用されています。どんな題材ですか。どんな対比ですか。
・21〜23節/
・創世記16:1〜2,15, 21:1〜3/

2 アブラハムは多くの子孫を与えると神の約束を受けていたにもかかわらず、女奴隷ハガルから跡取りを得ようとしました。不信仰の結果でした。しかし、神様は、その後約束通り年老いた二人にイサクを与えてくださいました。それで、女奴隷の子イシュマエルは「肉によって生まれた」のに対して、自由の女サラの子イサクは「約束によって生まれた」と言っています。この比喩は、ガラテヤの聖徒たちに何を考えさせているのですか。
・エペソ2:8〜9/


3 肉によってということは、人間的なやり方と人間の熱心と努力によることを意味しています。サラにイサクが生まれたのは、人間のいかなる努力や熱心の産物ではなく、神の約束による恵みです。このことから、信仰についてどんなことを思い起こさせてくれますか。思ったことや気付かされたことを分かち合ってください。



4 次の対比も律法と福音のための対比です。どんなことが対比されていますか。二人の女をどんなことに結びつけていますか。
・24〜26節/


5 今のエルサレムとは、新しい契約がイエス・キリストによって与えられたにもかかわらず、救い主イエス様を拒み、律法主義が支配しているユダヤ社会を指しています。パウロは今のエルサレムをアラビアにあるシナイ山だと言いました。アラビアの荒野は、律法による生き方や自分の考え、力によって生きることがどういうことだと思わせていますか。
・民数記14:22〜23/
・民数記32:13/

6  誰でも自分の考えや力に救いの願いを置けば、荒野をさまようことになります。律法はシナイ山で始まり、民は律法を守って荒野をさまよい、地上のエルサレムに到着しました。しかし、福音に生きる者は上のエルサレムにつながります。旧約聖書のすべては、新約聖書のモデルであり、影であり、予言です。上のエルサレムとは何をあらわしていますか。私たちは、どこを目指して、どういう生き方をして行く者ですか。
・ピリピ3:20,12〜14/
・Tヨハネ3:2,エペソ4:13〜15/

7 教会は、地上で始まった天国のコミュニティです。天国の市民権を持っている私たちは、教会生活を通して天国生活を練習していることになります。聖徒たちは、霊的な生活をしながらイエス様に似る者となるように成長して行く者です。自分がどういう者であるか分かっていると、地上での生き方が変わって来ます。三番目の対比は、どんなものですか。その対比が示すものは何ですか。
・28,31節/


8 イシュマエルは女奴隷の子であり、イサクは自由の女の子です。律法主義がもたらすものは束縛ですが、福音がもたらすのは自由です。 イエス様を信じて与えられる恵みの一つは、魂の自由です。イエス様も、キリスト者の自由を強調されておられます(引用聖句の真理と子は、イエス様のことです)。あなたは、福音によって与えられた自由をどのように行使していますか。どのようにその自由を用いようとしていますか。
・ヨハネ8:32,36/
・ガラテヤ5:13,Tペテロ2:16〜17/(参考)

9 29〜30節の奴隷の子が自由の子を迫害し、追い出されたというのは、イシュマエルとイサクの事件が元になっています。その寓意が示すことは、何でしょうか。
・29〜30節/
・創世記21:9〜10/

「命の実を刈り取ろう」

 イシュマエルがイサクをいじめて、ハガルとイシュマエルが追い出された話は、律法では天国へ入れないということを示しています。私たちの前には二つの道があります。 イサクの道とイシュマエルの道です。私たちは、福音を信じて生まれ変わり、天のエルサレムを目指して生きていきます。 罪から自由になり、魂の自由を享受して生きます。 律法の束縛から解放されて、自由人として生きるのです。学びを通して与えられた気付きや決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。ヨハネ8:32,36。

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