小グループで聖書を学ぶ
19 互いの重荷を負い合いなさい(ガラテヤ6:1〜5)

「心の門を開いて」

 前回「御霊によって歩みなさい」ということを学びましたが、御霊によって生きる人は具体的にどうするのでしょうか。今日の箇所では、当時ガラテヤで起こっていたと思われる問題について、御霊の人はどう対応するのかを教えています。これを学んで、私たちの生活へ適用しましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 律法主義のユダヤ人の影響を受けて、パリサイ人のようになっていたガラテヤの聖徒たちは、自分たちは律法を守るしっかりしたクリスチャンという自負があったのでしょう。そして、周りの過ちに陥った聖徒たちを批判し、責め、裁いていたようです。そのようなことから問題が生じ、人間関係が壊れて行くことになります。何と勧めていますか。
・1節/
・/

2 ここで大事なことは、正してあげる人です。正してあげる人は、「御霊の人である」ことが必要です。正してやろうとしたら、批判し、責め立てることになりかねません。どんな心で、どのようにしてあげることですか。「正して」の原語は、「網を繕う」とも訳されています。「柔和な心で」と訳されている原語は、御霊の実の「柔和」と同じです。この二つの言葉から、考えてみましょう。
・マタイ4:21/
・ガラテヤ5:23/

3 柔和な心とは、軟弱なイメージではなく、強さを秘めた優しさというイメージです。肉の感情に支配されるのではなく、聖霊に導かれる心です。正すと言っても、破れを修繕し、元の状態に回復させることです。過ちを正してあげるということは、デリケートなことです。指摘される方は、批判され、責められたと思い、心傷つき、怒りさえ生じるからです。過ちや失敗を指摘されて傷付いたり、憤慨したりしたことはありませんか。誰かの過ちや失敗を指摘したために、反発を受けたことはないですか。



4 ガラテヤの律法主義の人々は、他人の過ちを批判し、責め、裁いていたようですが、それは、彼らにどんな特徴があったからですか。
・3〜4節/


5 未成熟な人は、他人が過ちに陥った時、すぐに怒ったり、批判したり、責めたりしますが、自分自身のことはまったく考えません。人々は、他人の足りなさや過ちを指摘したり、責めたりするのですが、自分自身はどうなのかとは思わないのです。ラオデキヤの教会の人々や高慢な自信家のパリサイ人を見て、感じることは何ですか。
・黙示録3:17/
・ルカ18:11〜12/

6 1節では、正してあげる人々に対して、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と注意しています。私たちは、主の前では同じく過ちに陥り易い者、同じ罪人です。聖化のプロセスにあり、造り変えられる工事中の者です。自分を省みると、過ちに陥った人や失敗した人に対して、どのように接するようになりますか。
・マタイ7:3〜5/


7 御霊の人として他人を正してあげるということは、単に過ちを指摘することではないことが分かりました。お互い、足りない所があり、過り易い者であるならば、どうするように勧めていますか。
・2節/
・ヨハネ13:34/

8 2節の「重荷」の原語では、重り、困難な事、大きな荷物を意味します。相手の足りないことや過ちを責め、裁くのでなく、過ちや足りない所を負い合いなさいというのです。互いの足りなさを指摘し、過ちを責めるよりも、相手の足りなさを補い、過ちが修復することに心を向けましょう。私たちは、なぜ、そうするのですか。
・マルコ10:45/
・マタイ7:12/

9 私たちは、お互いに重荷を負い合うのですが、まずは自分の重荷を負うことが勧められています。5節の「重荷」は、2節の「重荷」とは違う言葉が使われています。2節の重荷は、一人では負えない荷物ですが、5節の重荷は、一人で負うことができる荷物のことです。このことは、私たちにどういうことを教えているのでしょうか。
・5節/
・Tペテロ4:10/

「命の実を刈り取ろう」

 人はそれぞれ、神様から任された賜物と働きがあります。それを持って、互いに仕え合うのです。自分のせいで起こる問題を他人のせいにしては、自分の重荷を負わないでいることになります。人生に疲れて、落ち込んでいる時、とても大変で、不安で、疲れている時、誰かが一緒に負ってくれるなら、再び立ち上がり、歩み出し、生きることができます。気付きや決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。ガラテヤ6:2。

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