小グループで聖書を学ぶ
22 イエスの焼き印を帯びている(ガラテヤ6:17〜18)

「心の門を開いて」

 家具やインテリアなどの木製品には、作品名や製造元の焼き印が押してあるものがあります。その昔、家畜や人にも焼き印が押されていました。今日の箇所に「焼き印」という言葉が出て来ます。ガラテヤ書の最後で記されているのは、きっと大切なことなのでしょうが、なぜこんな言葉が出ているのか、どんな意味があるのかを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 17節で「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのです」と記しています。ガラテヤ書の最後の所で、どうして突然こんなことを記しているのでしょうか。これまでのガラテヤ書での問題を思い出してみてください。
・17節/
・ガラテヤ6:12〜15/

2 割礼を受けた者たちが体の傷を誇るのに対して、パウロはイエス様の焼き印を誇っているようです。「焼き印」と訳された原語スティグマとは、家畜や奴隷の皮膚に焼付けられた持ち主を示すマークでした。イエス様の所有である焼き印、しるしと言うのは、パウロの宣教の生涯における迫害や苦難の傷や痛みだと言われています。それは、具体的には、どんなことですか。
・Uコリント11:23〜28/


3 イエスの焼き印とは、主の働きのために受けた肉体の傷、心の痛みでした。これらは、パウロの信仰の生涯そのものです。私たちの信仰の生涯において、どんなイエス様の痕跡があるのでしょうか。私たちの信仰生活における傷や病気、悩みや苦しみもイエス様の焼き印、しるしであるとしたら、どのように受け止められますか。



4 またイエスの焼き印とは、「肉体のとげ」のことだと言われています。パウロには、生涯続く痛みがありましたが、癒されませんでした。その代わり、どんなことを学びましたか。
・Uコリント12:7〜9/


5 パウロは、肉体のとげを思うたびに、イエス様の十字架を思い出しました。終生肉体のとげがありましたが、その弱さに働く神様に支えられて働きました。私たちにも、肉体的な弱さ、精神的な痛みもあるでしょう。そのためにイエス様を思い、主の十字架を考え、信仰で生きて行くなら、どのようになるでしょうか。



6 焼き印は、奴隷の所有者をあらわすものでした。ですから、「イエスの焼き印を帯びている」とは、「私はイエス様の奴隷だ」と言っていることになります。パウロは、「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と自分を紹介していますが、「しもべ」の原語ドゥーロスの意味は奴隷です。奴隷がどんな存在であったか考えてください。「イエスの焼き印を帯びている」と言う時、パウロはどんな思いで生きていたのでしょうか。
・ピリピ1:1/
・ガラテヤ2:20/(参考)

7 私たちはイエス様の十字架によって罪赦され、罪と死の奴隷から自由になりました。しかし、同時にイエス様のしもべ、奴隷となったことを忘れてはなりません。どうして、信仰生活に葛藤が起こるのでしょう。なぜ、信仰生活に力や恵みがないのでしょう。もし、私たちがイエス様の焼き印を帯びているなら、私達はどう生きるようになりますか。
・Uコリント6:3〜4前半/(参考)
・エペソ6:6〜7/(参考)

8 徹底的にイエス様の奴隷として、御言葉に従って行くならば、神様は私たちを徹底して守り、愛して、導いてくださいます。それが、主人の務めだからです。主であるイエス様が身代わりに十字架にかかってくださいました。パウロは、自分はイエス様の焼き印を帯びている奴隷であるから、どうしてくださいと言っていますか。なぜ、そのように言っていると思われますか。
・17節前半/


9 奴隷の焼き印によって主人がはっきりしていれば、焼き印がその奴隷をあらゆるトラブルや妨害から守ってくれます。私たちがイエス様の奴隷だと自覚し、徹底して主に従って行くなら、人々から悩まされることや不必要な問題に巻き込まれることから守られるでしょう。パウロは、他人に翻弄される聖徒たちに何と勧めていますか。勧めを受けたあなたは、どうしますか。
・Tコリント7:23/

「命の実を刈り取ろう」

 確かに、世に生きていれば、煩わされることがたくさんあります。惑わされることもしばしばです。そこで私たちがするべきことは、自分がイエス様のしもべであることを自覚し、徹底して御言葉に従って生きて行くことです。人の声に煩わされないで、イエス様の奴隷として神様に従って生きるのです。学びを通して与えられた気付や決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。ガラテヤ6:17。

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