小グループで聖書を学ぶ
20 種を蒔けば、刈り取りもする(ガラテヤ6:6〜10

「心の門を開いて」

 今、新緑の季節となっています。種を蒔けば、芽が出て、枝や葉が伸び、やがて実を結ぶことを見せてくれます。今日の箇所は、種蒔きと刈り取りの法則を通して、私たちの人生にも実がなることを教えてくれます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 幸いな人生を生きる私たちは、御言葉を食べて生きて行く者です。神様に信頼して、御言葉の通り生きて行くのです。私たちは、御言葉の素晴らしさと確かさを学び、良いものを分かち合いたいと願います。イエス様を信じて救われた者に約束された人生の祝福を享受するには、どうすればよいですか。自然の法則から教えています。まず、一つ目の法則は何ですか。
・6〜7節/


2 「種を蒔けば、刈り取りもする」という自然の法則は、蒔かなければ刈り取ることはできないということを示しています。「蒔かぬ種は生えぬ」ということわざの通りです。聖書の中の例を見てみましょう。蒔かないのに刈り取りを望むようなことはどんなことですか。蒔かないのに刈り取りをすることについて、社会で見られることや自分自身もしてしまうことは、何ですか。
・箴言20:4,21:25/(参考)


3 「種を蒔く」とは、人が継続的に行う行為を示しています。聖徒たちは信仰の祝福を願うのですが、御言葉通り生きようとしなければ得られません。試みや問題の渦中でも神様を信頼しなければ勝利できないのです。信仰によって生きる生活が人生に実りを与えてくれます。イサクの「百倍の収穫を見た」ということが注目されますが、何をすることと何を確信することが大切ですか。
・創世記26:12/


4 イサクが種を蒔かなければ収穫を見ることはできず、イサクが百倍の収穫を見たのは神様が祝福してくださったからです。私たちは、主が実らせて刈り取りをさせてくださると信じて、一生懸命信仰の種蒔きをするのです。次の種蒔きの法則は、どんなことですか。
・8節/
・マタイ7:16〜17/(参考)

5 蒔いた種と同じものを刈り取ることは、自然法則です。小豆を蒔けば小豆を収穫します。「瓜の蔓に茄子はならぬ」ということわざもあります。現在の姿は、過去に種を蒔いて来た結果です。ですから、何を蒔くかということが重要です。肉のために蒔く種か御霊のために蒔く種かの2種類です。それぞれどんな実を結ぶのですか。
・ガラテヤ5:19〜21/
・ガラテヤ5:22〜23/

6 「肉に蒔く」の英語訳には、「罪の本性を喜ばす」という訳があります。罪を蒔けば滅びを刈り取ることになります。「御霊に蒔く」は、「御霊を喜ばす」ということです。御霊の喜ぶことを蒔けば、永遠のいのちを刈り取ります。肉のためにではなく、御霊のためには、私たちはどうすればよいのでしょうか。あなたは、どうしますか。
・ガラテヤ5:24/(参考)
・ガラテヤ5:16,18,25/(参考)

7 イエス様を信じることで、私たちは、肉に支配される者から御霊と共に生きる者に変えられました。御霊のために種を蒔くならば、私たちは多くの祝福を受けることになります。しかし、種を蒔いても、実らず、刈り取りができなかったら、どんな気持ちになりますか。それに対して、種蒔きの法則は何と言っていますか。
・9節,イザヤ27:6/
・ローマ5:5,イザヤ57:10/

8 私たちの人生の種蒔きも、時が来れば刈り取ることになります。ところが、この法則を無視するために、神様の備えてくださった祝福を受けることができません。ここで言う「善」とは、御霊に蒔くこと、信仰で良いことをすることです。あなたは、御霊に蒔くことに失望し、諦めようとしたことがありましたか。どんな状況でしたか。



9 自分の望む時に事がならない、つまり刈り取りができないと、失望したり、諦めたりしてしまいます。主の導きに失望してしまうのです。神様を信頼し、神様の時に自分を合わせましょう。私たちは、信仰の証しに対する実がないと失望したり、信仰で仕えることに疲れたりするかもしれません。聖書は、何と言ってしますか。なぜ、そのように勧めることができるのですか。
・10節, 詩篇126:5/

「命の実を刈り取ろう」

 6節の「分かち合いなさい」の原語は、交わり、コイノニアの動詞です。礼拝を共にし、御言葉の恵みと適用を分かち合うことで、信仰生活での種蒔きを互いに励まし合うことができます。信仰生活は、人生に御言葉と信仰のわざの種蒔きをしているようなものです。「種を蒔けば、刈り取りもする」という御国の法則を信じて、信仰の種を蒔き続けましょう。気付きや適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。ガラテヤ6:7。

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