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22.残りの者は立ち返る(イザヤ10:20〜34)

「心の門を開いて」

 ユダの民に近づく災難が告げられています。アッシリヤがユダに攻めて来て、ユダの地を蹂躪し、ユダの地は廃墟と化します。しかし、同時に、神様の恵みにより信仰で生き残る者がいると教えています。多くの人々が生き方を変えて、信仰に生き残ることを神様は願っておられます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 北イスラエルとアラムがユダを攻めて来たので、ユダはアッシリヤを引き入れて、頼みとしました。しかし、アッシリヤは、北イスラエルなどを攻め滅ぼすだけなく、ユダまで攻めて来ました。ほとんどが焦土化するほどでした。しかし、確かな励ましと希望を与える印象的な預言が与えられています。どんなことですか。
・20-21節/


2 「残りの者が神に立ち返る」と言っています。ここで言うイスラエルもヤコブも、神の民の総称として使われています。神の民全体を指しています。つまり、残りの者は、「自分を打つ者」すなわち、アッシリヤを頼みとするのでなく、神様に拠り頼む者となったということです。アッシリヤを頼みとしたのですか。その選択だどうでしたか。



3 世的に見れば、連合軍に攻められた時アッシリヤを引き入れることは、妥当な選択でしょう。敵の敵を利用するという戦略的にもとてもうまい方法です。ユダは、アッシリヤ拠り頼むことで、連合軍の脅威から解放され、一時は平安になりました。しかし、それは、自らにアッシリヤ侵攻という災いを招くこととなります。不信仰と浅薄な考えのために、私たちもこのような間違いをしてしまうのではないでしょうか。あなたにとって、アッシリヤとは何ですか。



4 この3節の中に、「残りの者」という表現が4度も記されています。単に戦争で生き残った人という意味なのでしょうか。どういうことをする人なのでしょうか。
・20-23節/


5 アッシリヤのユダ侵攻は、自分たちの罪が原因であり、神様に立ち返るための出来事だったと悟った人々が、「残りの者」です。「残りの者」とは、世がひどい中でも、神様の恵みの中で信仰で生きて行くようになった人のことです。儀式として礼拝はしても、御言葉には聞き従わず、肉の思いのまま生きる民を、神の民とは見られなかったのです。神様の御前に生き残る方法は、神様以外に拠り頼む道はないと認め、神様の御心のままに生きることだけです。あなたは、「残りの者」となっていますか。



6 アッシリヤ侵攻で、ユダは、危機と絶望の中にいます。信じる者にとって最も大きな痛みとは、明日が見えないことです。あれも駄目これもだめと言う時、私たちの心は憂うつで重苦しくなります。しかし、神様は、猛獣のようなアッシリヤを恐れるなと言われるのです。なぜ、そう言えるのですか。(参考/出エジプト14:21-22、詩篇126:5~6)
・24-27節


7 神様が出エジプト時エジプトを打ったように、アッシリヤも打たれる、エジプトの奴隷状態から救い出されたように、苦難の中から引き出されると言われたのです。時が来れば、状況は変わります。必ず苦難には終わりがあります。苦境から解放してくださいます。朝の来ない夜はなく、状況は必ず変わります。このことから、どんなことを感じますか。(参考/詩篇30:5)


8 アッシリヤ軍は、凄まじい速さで押し寄せ、エルサレムまでの町々を蹂躪します。その強さと勝利を豪語し、神の民の都エルサレムを攻めようとします。すなわち神様に挑戦して来たのです。その結果どうなりましたか。
・32-34節/


9 しかし、まだ今はアッシリヤの攻撃を受けています。ここには、エルサレムまでの小さな町々の名前が列挙されています。このようにエルサレムに進軍して来るアッシリヤ軍の進路を詳細に話されたのは、どんな理由からでしょうか。
・28-32節/

「命の実を刈り取ろう」

 平安の道に出るには、苦難の藪を抜けなければなりません。自動的に信仰が良くなる人は誰もいません。神の民は、恐れや不安、悲しみと苦しみの中を通りながら、信仰の真理を一つずつ学ぶようになっているのです。私たちが、人生において出会う苦難、不安や恐れ、その中を通りながら、私たちは信仰の恵み、深さ、確かさを味わい、歩んで行くのです。イエス様の十字架の救いに拠り頼むことが力となります。そのようにして「残される者」となって行きます。今日の学びで、あなたに示されたことは何ですか。ローマ9:26-27。

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