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21.神の道具と人の高慢(イザヤ10:5〜19)

「心の門を開いて」

 神の民であったイスラエルは、神様に背を向け、自分勝手に歩んでいました。そのような状況で、当時最も悪い強国であったアッシリヤによって攻められ、滅ぼされることになります。どうして、神様がこの国を用いられるのか、このような国をどうされるのかを学び、私たちへの適用を受けます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 アッシリヤは、一つの国を攻めると、その国を完全に破壊し、殺戮し、残りは連行したそうです。このような国が、どのように用いられたと言っていますか。(参考/エレミヤ51:20)
・5-6節/


2 神様が強国アッシリヤをイスラエルに送り、イスラエルを懲らしめる道具として用いられたというのですが、当のアッシリヤは、そのように考えていたのでしょうか。
・7-11節/



3 アッシリヤと神様の計画には、ずれがあります。神様は、ただイスラエルだけを渡されたのに、その分限を越えて、アッシリヤは、他の国々まで攻め、ユダとエルサレムまでも滅ぼそうとします。私たちの計画と神様のご計画にずれはないでしょうか。私たちは、己の分限をわきまえているでしょうか。己の思いに走っていないでしょうか。何のためにその立場と力を与えられているのかを考えてみましょう。



4 人の罪の性質は、己の分をわきまえない、わきまえようとしないので、用いられていることに気付きません。道具として用いられることを拒み、認めません。自分がしたいことをする、という罪の性質の典型がアッシリヤ王でした。神の主権、神の国論という重要な教えがあります。どんな強大な国であっても、神様の統治の中にあるということです。残忍で凶暴なアッシリヤでも、ユダとエルサレムを滅ぼすことはできませんでした。神様がそれ許さず、ユダを見捨てられなかったからです。あなたも、このような神様の守りの中にあります。どう思いますか。

5 不思議なことに、人は、平安になると罪を棄てないのです。うまく行っている間は、悔い改めない、間違った習慣や歩み方をやめないのです。しかし、困難や攻撃に会う時、悔い改めて神様に助けを求めるのです。悪は、そのようにして用いられるのです。しかし、用いられることを知らないアッシリヤは、何と言っていますか。それに対して、神様はどうされると言われましたか。
・12-14節/


6 おごり高ぶる者を神様は裁かれます。アッシリヤは、神様に用いられた道具に過ぎません。今日上に立つ政治家や経営者たちは、すべて自分の力でしたと傲慢になります。しかも、責任を取ろうとしません。これほど危険なことはありません。権力や権威は、神様が貸してあげたもので、神様は必ずその責任を問います。アッシリヤの高慢は、どのように譬えられていますか。私たちも、そのようになっていないでしょうか。
・15節/


7 アッシリヤは、どこまでも神様に用いられた道具に過ぎません。エルサレムを攻撃することは、斧が持ち主を切るようなものです。すべてのことは、神様が私たちに貸してくださったのですから、それを責任を持って用いることを求められます。神様の御心に沿うように用いなければなりません。いつか神様は、貸していたものを回収されて、各自が行なったことに応じて裁かれます。アッシリヤは、どのように裁かれるのですか。
・16-19節/


8 栄えていた強国アッシリヤは、間もなくあっという間に滅びてしまいます。アッシリヤは、イスラエルの懲らしめのために斧として用いられましたが、そのアッシリヤも傲慢と腐敗のために自ら滅亡の道を辿って行ったのです。傲慢な道具は棄てられてしまいます。私たちは、どのような道具になのですか。どのように用いられるのですか。
・ローマ9:20-23/
・エレミヤ18:4-6/
・Uテモテ2:21/
「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、「神の御怒りを受けるべき器」でしたが、イエス様の十字架によって救われる「あわれみの器」となりました。患難や挫折を通して、神の民は、「神に用いられる器」として造り変えられます。私たちは、悪者や苦難を通して生き返るようになります。私たちは、良い目的のために用いられる尊い道具となりました。主権は神にあります。私たちにすべてを貸し与え、委ねられました。イエス様の尊い救いを受けた私たちは、どのように用いられる神の道具になって、生きようとしますか。ガラテヤ6:4-5。

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