小グループで聖書を学ぶ

25.主の救いをほめ歌え知らせよ(イザヤ12:1〜6)

「心の門を開いて」
 
 人生を振り返ってみれば、ただただ神様の恵みと守りがあったと感謝し、賛美するほかありません。その間には、多くの患難や危機がありました。重要なことは、その時は絶望的な状況だったとしても、それが展開して今があるということです。だから、いつでも神様を賛美できるということを学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 強大国アッシリヤの攻撃で、絶望寸前まで追い込まれていたユダに対して、やがてユダの民が神様を賛美するようになると言われています。なぜ、賛美するのですか。
・1節/


2 神様をほめたたえるようになる人々が体験することは、神様のこの「御怒り」と「慰め」です。彼らは、この二つを同時に経験する人々です。罪を嫌う神様の戒めを受け、悔い改めた後に慰めと回復を経験するからです。私たちに苦難や試練が訪れる理由は、何でしょう。
・ヤコブ1:3,4,12/


3 苦難の中でも、悔い改めて、神様を信頼して行くなら、耐え抜くことができ、恵みを受け、神様を賛美するようになります。信仰の力を失ってしまうのは、この二つのうち一つしかないためです。ある人は神様の慰めだけを求めます。あなた自身は、どうですか。



4 私たちは、時々後ろを振り返ってみる必要があります。過去どれほど絶望的な状況で身悶えし、どれほど望みのない状態でいたか、そこからどうして今に導かれているのか。そうすると、神様を賛美せざるをえません。どんな賛美ですか。
・2節/


5 「見よ。神は私の救い。」とは、「ああ!神様は本当に約束されたように私を困難の中から救い出してくださった。」という、感激の賛美です。神様は、私たちを哀れみ、生きる望みのない人、自暴自棄になっている人々をその中から救い出してくださいます。あなたが救い出されたことを思い出してみましょう。感激していますか。



6 「主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」という賛美は、救いから始まった信仰の歩みが素晴らしいということです。主が私を絶望と困難から救い出されたので、この方だけに拠り頼む、神様がすべてだという告白です。私たちは、自分を知れば知るほど、自分のような罪人をなぜ神様は救ってくださるのかと不思議に思います。なぜ、救われたのですか。
・Tペテロ2:24/


7 以前私たちは、神様を知らない者でした。救いの必要さえ感じることのできない者でした。救いは、神様の方から私たちを尋ねて来られたのです。ハレルヤと褒め称えずにはいられません。神様を人格的に知るようになると、救いの喜びや幸いで苦難に打ち勝てるようになり、神様の救いをほめ歌うようになります。だから「主は、私の力」と言えるのです。繰り返し悔い改めることを通して、新しい力が注がれます。体験があれば、分かち合ってください。



8 3節は、かつて出エジプトの民が荒野をさまよっていた時、水がなくて苦しんだことを想像させます。のどが渇いて死にそうになった時、目の前に救いの泉が湧き出しました。最も絶望的な瞬間が、最も偉大な時となりました。彼らは、泉から水を汲み出しながら、賛美しました。民21:16-17。神様の返答される時間は、私たちの限界をほんの少し越えるかもしれません。アッシリヤによって滅亡寸前という状態の当時のユダに対して、その賛美はどんな確信を与えると思いますか。
・3節/
・使徒16:24-25/

「命の実を刈り取ろう」

 救われた者のすることは、体験した神様の救いを世に証しすることです。4-6節。イエス様による救いの御業を世に宣言することです。苦難を信仰によって受け止め、乗り越えさせていただいた者が、苦難の中で救いを求める人々に福音を伝えることが、一番説得力があります。神様の義と慰めと愛が十字架の上でつながりました。私たちは、もっと深く信仰の素晴らしさを知り、体験する必要があります。今日の学びで、どのような状況でも賛美ができる確信を持つことができましたか。証しの生活に変化が期待されています。どのようにしていきますか。詩篇96:1-3。

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