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33.その日、栄光が(イザヤ17:1〜14)

「心の門を開いて」
 
 この章は、再びアラムと北イスラエルについて記されています。なぜ、わざわざ振り返えらせているのでしょうか。ユダが、この二つの国によって苦しめられ、困難となっていた時を思い出させているのです。どんな意味があるのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ダマスコ(アラムの首都)とエフライム(北イスラエルのこと)についての預言という形で語られています。すでに過去のことですが、この二つの国のどんなことについて語られていますか。
・1-3節/


2 ダマスコも北イスラエルの首都サマリヤも、堅固な城塞都市でした。ところが、この二つの国は滅び、首都は廃墟となっています。かつて、この二国によってユダが攻められた頃、ユダは、どのようにしてこの脅威を除いたのですか。
・U列王16:7-9/


3 二つの国がユダを攻めて来た時、ユダは、強大国アッシリヤを引き入れる策略を巡らしました。結果、思惑通り二国はアッシリヤによって滅ぼされました。この二国に攻められた時、ユダとしては、本当はどうすべきだったと思いますか。その時のユダは、どのような状態だったかを参照しましょう。
・U列王16:2-3/


4 二国によってユダが攻められたのは、意味がありました。神様は、それによって、ユダが神様に立ち返って、高慢と背信を悔い改め、純粋な信仰を取り戻すことを願われたのです。彼らの策略の結果、二国が滅びるだけでなく、アッシリヤは、ユダまで攻めて来ました。困難が起こる時は、霊的な状態を点検してみる機会です。ところが、人は、早く問題を片付けることだけを考えるのです。神様はいつこの苦境から抜け出させてくれるのか、だけを願うのです。この時のユダが、まさにその姿でした。そのような経験があれば、分かち合ってください。


5 アラムと北イスラエルは滅びましたが、ユダはどんな状態になっていますか。彼らの栄光は、回復したのでしょうか。なぜ、そうなったのでしょうか。
・4-6節/
・9-11節/

6 二つの国がとげのようになっていた時、ユダは謙遜であり、祈っていました。ところが妨げるもの、苦しめるものがなくなってしまうと、謙遜も祈りもなくなったのです。ユダの栄光は衰えました。痛みがないままで病気だけ進行していくなら、手遅れになってしまうでしょう。しかし、どこか痛い所があれば、治療を受けることができます。悔い改めて、神様に立ち返り、神様に拠り頼んだユダに対して、神様はどのようにされましたか。(参考/U列王19:33-35)
・12-14節/

7 神の民にとって、外敵も災害も、意味があります。彼らにとって最も重要なことは、何でしょうか。神様は、神の民が何をし、どのようにすることを求められたのですか。どうしたら、栄光が回復されるのでしょうか。
・7-8節/


8 結局、ユダの没落の原因は、神様とともにいることを拒んだからです。神の民には、真の神様を礼拝し、仕えることが求められました。私たちにとって重要なことは、神様の恵みと守りの中で生き、神様だけを礼拝し、神様に聞き従うことです。これが、神の民の栄光の姿です。あなたの姿は、どうですか。


9 「その日栄光が衰えた」のは、結局神様との関係が壊れているためでした。神様との関係を正しくするか、その逆に、世の関係を優先し、神様に背を向けるか、そのどちらかを選ばなければなりません。神様との関係が正しければ、聖霊の働きを受けることができます。しかし、神様を忘れて世に流されて行くならば、神様は助けることができません。二国の滅びとユダを見て、あなたの思うことは何ですか。


「命の実を刈り取ろう」

 神様は、御子イエス様を私たちの身代わりに十字架に渡されて、私たちを救いに導いてくださいました。私たちの生きる栄光の道は、イエス様を信じて、この救いを受け、御言葉に聞き従って生きることです。イエス様が十字架に苦しみ死なれたその日は、信じる者には罪の赦しと救いが与えられる栄光の日となりました。人生における「その日」が、栄光が衰える日でなく、栄光の日となるために、どうして行きますか。(Uコリント6:1-2)

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