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37.あなたの避け所はどこか(イザヤ20:1〜6)

「心の門を開いて」
 
 昔何か特別な意思をあらわす時、剃髪するとか、荒布を着るということがありました。神様のメッセージにも、言葉のほかに方法がありました。イザヤに命じられた方法は、大変変わった方法でした。

「御言葉の種を蒔こう」

1 まずその時代的背景。パレスチナ地方の諸都市が、反アッシリヤ同盟を結んで反抗しました。その背後に、エジプトの支援がありました。その一つアシュドデは、エルサレムの西方にある地中海に面した都市国家で、エジプトへの要衝の地であり、戦略的に重要なところでした。そのアシュドデがどうなったのですか。
・1節/


2 この時、ユダは選択の岐路に立たされていました。パレスチナの諸国は、反アッシリヤ同盟で一つとなっており、南に隣接する大国エジプトが後ろ盾となっていました。ユダの問題は、この同盟に参加するのか、孤高を保つかという選択です。常識的に、歴史的に考えて、ユダはどちらの方を選択すると思いますか。


3 常識的には、エジプトを頼んで、反アッシリヤ同盟に参加するのが、唯一の道のようです。以前ユダは、親アッシリヤ政策をとった時、周りの反アッシリヤ同盟の国々から攻撃を受け、アッシリヤからも攻撃を受けてしまいました。経験上常識的に考えて、今回は同盟参加を決めていたようです。しかし、神様は、このユダの計画に対して、どんなことをするようにイザヤに命じられましたか。それは、なぜですか。
・2節/
・3-4節/

4 ユダが頼ろうとするエジプトは、アッシリヤに敗れ、捕虜となります。捕虜の姿で歩きながら、エジプトを頼ろうとするユダの民に、問いかけたのです。「その方法で本当にいいのか、信仰的にはそれでいいのか、神様の御旨はどこにあるのか」ということです。私たちは、岐路に立たされた時、世的には妥当だとしても、信仰的に考えていたでしょうか。神様が喜ばれることかどうかえを考えていたでしょうか。経験をお分かちください。


5 なぜ神様は、イザヤにこのような格好で人々の前に出て行くように言われたのでしょうか。預言者は、神様の御言葉を伝えるという、言葉で主の御旨の宣言をする者です。それなのに、なぜこのような姿を見せなければならなかったのでしょうか。それまで、神様の御言葉の宣言を民は聞いていたのでしょうか。どう思いますか。



6 言葉で言っても、民は、聞き入れず、理解しなかったようです。心が頑なになっていたのです。それで、行動で示されたのです。偽りや悪口に対してあれこれと自分を主張するより、黙って侮りに耐える方が断然光るでしょう。あれこれ不満や不安を言うよりは、祈り続け、断食する方が神様の取り扱いを受けるでしょう。イザヤの姿、行動そのものが神様の言葉となったのです。イエス様の十字架の犠牲によって救われた私たちの姿や行動は、何を現して生きるのですか。
・Tコリント6:20,10:31/


7 聖書は、頑なな神の民に、その道の先を見せてあげて、「その道を進んで行くことは正しいのですか」と警告を与えました。やがて「大国エジプトが敗れる」という預言を知らされたパレスチナ諸国は、どんな反応をしていますか。
・5-6節/


8 「私たちの拠り所はこの始末だ。逃れることはできない。」と嘆くのですが、イエス様を信じた者は、創造主なる神様を拠り頼んで生きることができます。どんなに素晴らしいことでしょうか。それなのに、エジプトならぬ、世の何か、誰かを拠り所にするのですか。頼りにならないものに期待してしまうのですか。



「命の実を刈り取ろう」

 神様がイザヤにそのような姿で活動させた理由は、エジプトよりもっと偉大なお方が彼らにはおられるということを悟らせるためでした。今日私たちがすべきことは、イザヤの服装で神様の御前に立つことです。自分の自慢するものや拠り頼むものを置いて、神様の前に裸になることです。神様以外を避け所としない、恐れないと決心することです。そうすれば、神様に守られます。罪を犯したアダムとエバが、神様から「身を隠した」時、「あなたは、どこにいるのか。」と神様は問いかけられました。私たちは、この声を聞いて、御言葉に拠り頼み、神様を避け所としなければなりません。イザヤの行動を通して知らされた神様のメッセージを受けて、あなたはどうしますか。(参考/詩篇46:1,ローマ10:11)

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