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43.悔い改めて賛美へ(イザヤ24:14〜23)

「心の門を開いて」
 
 神の民が賛美をする時、その心は一様ではないようです。神様を喜んでする場合でも、純粋にする場合もあれば、自分の喜びで賛美する場合もあるでしょう。散らされたイスラエルの民がどんな心で賛美していたのか、それは私たちを省みさせます。私たちは、どんな心で賛美しているでしょうか。神様に対してどんな思いで生活しているでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 どんな人が、何をしている様子が記されていますか。
・14~15節/


2 イスラエルの民は、カナンの地に先祖代々いたわけではなく、ただ、神様がイスラエルの民と契約を結ばれたからです。神様は、エジプトから民を救い出された後、神様の御言葉を守ることを要求されて、カナンの地を与えました。それは、神様の選びであり、一方的な恵みでした。民は、どう応答すべきでしたか。
・エペソ2:8/


3 彼らは、神様の恵みに応えることがなく、神様を恐れる心と悔い改めの思いを失い、滅んでしまいました。捕囚となって世界に散らされた人々は、アッシリヤとバビロンが滅んだという知らせに驚き、喜んで、賛美しています。彼らの賛美を聞いたイザヤは、嘆きます。彼らの賛美の何が問題だったのですか。
・16節/


4 イザヤは、散らされた者たちが、神様を賛美しながら、「正しい者にほまれあれ」という声を聞いて、苛立ち、嘆きました。彼らは、一方的に神の民とされながら、シオンの地を与えてくださった神様に対して裏切っていたからです。賛美する彼らには、悔い改めがありませんでした。このような人の姿について、イエス様は何と言われましたか。
・マタイ7:21/


5 イザヤは、「私はだめだ。私はだめだ。」と繰り返し、嘆いています。イザヤは、自分の中にも、そのような高慢や悔い改めのない姿があると悟ったからです。イザヤは、人の本性について深い絶望を持たずにはいられませんでした。そして、自分はどうかと省みて、深く嘆かざるを得なかったのです。イザヤは、神殿で神様の栄光を見た時、どんな反応をしていますか。なぜ、そう言ったのですか。
・イザヤ6:5/


6 神様の哀れみと恵みに対して、彼らは、自分たちが特別だから、「正しい者にほまれあれ」と賛美したのです。私たちも、私が良くて、自分が頑張ったので、神様は顧みてくれた、と喜んで賛美していないでしょうか。喜びの賛美はしても、悔い改めの涙を流しながら賛美することはどうでしょうか。イザヤの嘆きは、彼だけのものと思いますか。(参考/ヤコブ3:10)


7 続く神様のさばきのくだりの中で、「地上の民よ」と呼びかけていますが、彼らのどういう価値観や目的を象徴している呼びかけなのでしょう。
・17-18節/
・ピリピ3:19/

8 滅びの描写は、まるで大きな地震が起きたような姿です。酔った人のように地がゆれる表現は、神様から離れて、自分の思うまま生きる人々の地上の人生が、どのようだと表現しているのでしょうか。
・19-20節/


9 終わりの日、再びイエス様があらわれ、救いが完成されます。すでに、イエス様はご自分を十字架上につけることで、信じるものすべてが救われるようにしてくださいました。人の罪の問題は、十字架によって解決されたのです。あなたは、この一方的な救いの恵みについて、どう応えたいですか。
・23節/
・Tペテロ2:24/

「命の実を刈り取ろう」

 地に頼り、高慢と自己欺瞞で生きようとすれば、地と一緒に滅んで行くでしょう。イエス様が私たちの罪と滅びを負って十字架にかかってくださったので、私たちは、今恥ずべき姿を主の前にさらけ出し、たましいの治療を受け、新しい人に治されるのです。詩篇32:5。神様の恵みに対する、あなたの賛美の姿勢はどうですか。賛美の生活をどのようにして行きますか。

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