小グループで聖書を学ぶ
47.ブドウ園の歌、実を結ぶ人生(イザヤ27:1〜13)
「心の門を開いて」
神様の恵みの深さをこれでもかと感じさせる賛美です。神の民は国の滅亡と捕囚という大きな患難を体験しました。クリスチャンも人生において様々な患難を経験します。しかし、それで終わりではなく、神様に見捨てられたわけでもなく、それを踏まえた恵みが備えられているということを学びます。
「御言葉の種を蒔こう」
1 昔の人々は、海には恐ろしい怪物がいて、人や船を襲うと考えていました。その名前がレビヤタンです。蛇とか竜とか言われているレビヤタンを神様が剣で殺すと言われるのは、どういうことを指しているのですか。
・1節/
・黙示録12:9,20:2/
2 人の罪が、サタンの囚われ人にさせています。患難に会うということは、レビヤタンに呑み込まれるようなものです。人が自分の力で竜の腹から出て来ることはできません。私たちがどうする時、神様は救い出してくださるのですか。
・ヨナ1:17~2:2,10/
・使徒3:19~20/
3 患難からの解放と恵みが、ブドウ園の歌として賛美されています。聖書では、ぶどうの木と農夫は、誰に譬えられていますか。ブドウ園をどのようにしてくれるのですか。
・2-3,6節/
4 農夫が果樹を栽培する目的は、その実がなることです。神様が願われたのは、ただ霊的実、造り変えられた人生です。ブドウ畑を台無しにするのは、外から来るレビヤタンのようなものばかりでなく、畑の内にあります。実を結ぶために、どういうことをしてくださいますか。それは、何を意味していると思いますか。
・4節/
・マタイ13:22/
5 人が人生の実を結ぶために神様が願われたのは、神様との正しい関係です。神様との和解です。私たちが、罪に囚われ、自分の力、世の方法に頼って、神様に背を向けて他に向いてしまうからです。「わたしはもう怒らない」(4)と言われた神様は、私たちがどうすることを求められていますか。放蕩息子の例を参考にしましょう。
・5-6節/
・ルカ15:17~20/
6 神様は、放蕩息子の父親のように、勝手にどこかに行ってしまう私たちが立ち返るのをひたすら待っていてくださいます。ブドウ園の農夫のように懇切丁寧に育ててくださいます。涙を流して、放蕩息子のように立ち返って行く時、私たちのうちにある罪の根が抜け、新しい信仰の命が芽吹き、麗しい信仰生活の花が咲き、信仰の実を結ぶようになります。あなたは今どのような状態にありますか。
7 ユダの民は、こんなにも慈しみ深い、憐れみ深い神様の御心を知らず、罪のゆえにアッシリヤやバビロンによって苦しめられ、滅んでしまいました。ブドウ園は、棄てられたのでしょうか。私たちは、患難と試練によってたたかれ、再起不能にされるのですか。
・7節/
・Uコリント4:8~10/
8 神様は、バビロン捕囚を通して、神の民の罪との関係を断ち切らせておられます。自分では離れられないのが罪の性質だからです。それで、彼らの拠り頼む「城壁のある町」を廃墟にされました。捕囚になったのは、アシェラ像などの偶像崇拝から引き離すためでした。そのようにして、民が立ち返る機会を、神様が与えられたのです。エルサレムの破壊とバビロン捕囚という裁きと見えることも、回復のためのプロセスとなっていることを知って、どう思いますか。
・9~10節/
9 事実、サマリヤも、エルサレムも滅び、廃墟となっています。神の民は、アッシリヤやバビロンに捕囚として連れ去られて行きました。それが、最後ではないということを教えてくださいました。神様は、散らされた民をどうされると言っていますか。
・12-13節/
「命の実を刈り取ろう」
川に落ちた実を広い集めたように、神の民を新しく回復してくださると言われています。バビロン捕囚という患難を通して、その新たにされた信仰が広まります。神様のなさることに失敗はありません。私たちが罪に翻弄されたり、放蕩息子のようになることさえ、神様の恵みの回復への過程とされるのです。このぶどう園の歌は、神様の深い憐れみと慈しみ、忍耐に圧倒されながら、回復の感動と悔い改めの涙で賛美する歌です。そのような神様の恵み深い取り扱いに対して、どう応えますか。使徒3:19~20。