小グループで聖書を学ぶ

48.御言葉に従って、憩いと休息を(イザヤ28:1〜13)

「心の門を開いて」
 
 御言葉は、時代を超えて、今の私たちに語りかけています。私たちの姿を知っているかのように、いや、知っているから、語りかけてくださるのです。今の私たちに必要だからです。聞く私たちも、謙遜になって、素直に自分への語りかけとして学びましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 この言葉が告げられた時期は、北イスラエルのサマリヤが滅びる前の時代と思われます。北イスラエルの中心部族はエフライムでした。その首都サマリヤは、豊かな谷の中心、丘の上に築かれた美しい冠、花のような城でした、彼らの誇りでした。今、そのサマリヤの町はどんな様子になっているのですか。
・1節/


2 酔いつぶれた者たちであふれたサマリヤは、どうなってしまうと言っていますか。
・2~4節/


3 酔いどれのサマリヤは、大きな雹で破壊され、豪雨で押し流されるようにさばかれるというのです。神様の民でありながら、悔い改めない高慢なサマリヤは、肉のプライドを強く持っており、我々は頑張った、事は収まったのだから、飲んで酔うべきだとなったようです。神様が喜んでくださり、守ってくださる神の民は、どんな民ですか。
・5~6節/


4 「民の残りの者」には、神様がさばきの霊となって、責任を担う者に分別力を与えてくださり、攻め寄せて来る敵や困難から守ってくださいます。ここに、二種類の神の民を見ることができます。一つは、酒に酔う民です。酒に酔っているということは、酒で満たされ、神様に頼らず、自己満足と肉のプライドで立っている姿です。もう一つは、残りの者です。彼らは、悔い改めて神様に立ち返り、神様に拠り頼む者です。自分には神様以外は何もないと悟る者です。この二種類の人をみて、あなたの思うことは何ですか。(参考/黙示録3:17,詩篇51:17)


5 続く節には、驚くべき姿が記されています。酔いどれのサマリヤの滅びを見たユダの民、残された民なのに、どうしてそのようなひどい状態なってしまったのでしょうか。
・7-8節/
・エペソ5:18/

6 ユダの信仰を支えていたのは、サマリヤのようにはならないという対抗心でした。ところが、サマリヤがいなくなると、信仰に満たされるよりも、酒に満たされる方を選んでしまいました。サマリヤの滅亡によって、ユダが繁栄して来ると、霊的緊張が緩んで自己満足に陥り、神様に拠り頼まず、酔いどれになったようです。このような傾向は、私たちの内にもないでしょうか。



7 結局、彼らが神様の御言葉に生きなかったことが、ユダの放縦の原因でした。9節は、御言葉をよく知っているから、大人たちは学ぶ必要がない、小さな子供が学べばいい、という意味のようです。なぜ、御言葉を軽く扱うようになったのでしょう。「あっ、それは、知っている。すでに学んだ。」ということがないでしょうか。
・9,12節/


8 10節で酔っ払いが言っているのは、御言葉を戒めや規則のように知識として受け止めていたということです。聖書の知識はあっても、御言葉によって生きることをしなかったのです。このようなことは、現代のクリスチャンにも見られることではありませんか。
・10節/


9 なぜ、民は、御言葉を教えても、神様の御旨や導きに聞き従うということは教えなかったのでしょうか。現代の日本において福音が広がらないのは、ここに原因があると言われます。御言葉を聞く側と伝える側の問題を考えてみましょう。


「命の実を刈り取ろう」

 9の理由は、伝える方で、相手が御言葉を負担に思うのではないか、聞き従うことを言えば反発されるのではないか、と考えるからです。しかし、御言葉を伝える者たちが、神様の御言葉の中にすべてがあると信じていなかったからです。確信していたなら、自分自身がどんな時にも御言葉に聞き従うでしょう。そして、どのような人にも確信をもって御言葉を証しするでしょう。それが伝わります。私たちは、イエス様に救われた者ではないでしょうか。御言葉に対する確信はどうですか。御言葉の真理で生きようとしていますか。確信をもって伝えますか。詩篇103:20~21。

戻る