小グループで聖書を学ぶ

51.逆さに考えている(イザヤ29:13〜24)

「心の門を開いて」
 
 クリスチャンなら、神様を信じる信仰を持っています。しかし、持っていると思っている信仰が、信仰とは似て非なるものであるということもあります。私たちが信仰と思っていることが、実はまったく違ったものであるということを知らせているのが、きょうの箇所です。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ユダは、信仰的な王様の時代に、信仰を復興させました。偶像を一層し、神殿を修理し、散らされた祭司たちを集め、礼拝を再開しました。しかし、この時のユダの民の信仰、礼拝はどうだと言われていますか。
・13節/


2 信仰は口先だけで、心は神様から離れていると言われていますが、イエス様もエルサレムの指導者たちの形式的な礼拝を批判されました。多くのクリスチャンが、礼拝と生活を別に考えています。信仰は、人生の一部分で、心の中心には自分が座り、御言葉に聞き従がおうとするわけではありません。全面的に神様に拠り頼む神様中心の信仰をおかしいと思っている人々もいます。あなたの信仰は、どうですか。
・マタイ15:7-9/


3 自分中心である自分を利巧だと思っている、その彼らの知恵は、どのような結果をもたらすと言っていますか。
・14~15節/


4 「知恵が滅び、悟りが隠される」とは、彼らの誇る知恵が、彼らの霊的判断を遮ってしまうということです。悪しきことを計画し、行いながら、「主は見ていない、神は気付かない」と言います。どうしてそんな愚かな考えをするのでしょう。そのような考えを、どのように譬えていますか。(参考/詩篇94:7-9)
・16節/


5 粘土と陶器師の関係が、神の民と神様との関係です。ユダを造られたのは神様であって、彼らのことをよくご存知です。それなのに、造られた器は、造ってくださった神様を「わからずやだ」と言っています。なぜ、そのように言うのでしょう。あなたも、そのように言うことはないですか。



6 土の器は、あべこべに逆さまに考えていました。陶器師は、粘土から用途に応じて器を作ります。もし、その器が用途に適応しないと、どうなりますか。頑なな土の器が、造りかえられると、どんな器とされるのですか。
・エレミヤ18:6/
・Uコリント4:6-7/

7 壊されても仕方ないような私たちを、イエス様のゆえにあわれみの器として救ってくださいます。神様は、ユダの民を哀れんでどう回復されますか。では、どのような者を退けると言っていますか。その者の特徴は、どうですか。
・17-19節/
・20-21節/

8 神様は、なにゆえにヤコブ、すなわち神の民を顧みてくださると言われましたか。
・22-23節/


9 アブラハムへの約束のゆえに、その子孫を顧みてくださいます。アブラハムは、神様の御心に純粋に従う人でした。しかし、ヤコブは、神様を信じているようで、いざとなると自分の頭を信じ、自分の方法ですべてのことにあたりました。ユダの民は、ヤコブの道を選び、進みました。しかし、頑なな者が、神様の憐れみに接したら、どうなりますか。
・24節/


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、どれほど祝福を受けて生きているか分かりません。ますます神様の御心を悟るようにされ、それが力となるからです。しかし、自分の頭を選んで、罪に無感覚になるなら、ヤコブのように長い試行錯誤を経て行くことになるでしょう。陶器師である神様は、粘土の私たちたちをアブラハムのように造り変えてくださいます。逆さに考えて自分の頭を信じるなら、ヤコブのようになります。地上の生涯は短いものです。あなたは、どのような器となって、神様に用いられ、世に証ししますか。引用聖句を参考にして、思うところを分かち合いましょう。
ローマ9:20~24/

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