小グループで聖書を学ぶ

52.何を頼りとするのですか(イザヤ30:1〜7)

「心の門を開いて」
 
 神の民は、荒野の旅中、危機に会う度に、エジプトにいればよかった、エジプトの方がよかった、と言っていました。私たちも苦難や困難の中で、世を頼り、戻ろうとします。それが、どんなに間違った愚かなことであるか、今朝の箇所は教えています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 当時アッシリヤという残虐で最強の敵は、すでにアラムや北イスラエルを滅ぼして、ユダに攻め寄せて来ています。小さくて弱いユダでは、とても防ぐことができません。ユダは、どのような手段を取ろうとしているのでしょうか。神様は、その民の計画をどう思われていますか。
・1-2節/


2 助けを求めた計画自体を責めているのではありません。神様は周囲の国々を用いて、神の民を助けてくださいます。神様が責めたのは、ユダの民が、思い巡らしたことについて神様には聞かず、導きを求めようとしなかったからです。私たちにも、そういうことがないでしょうか。



3 苦難の理由は、神様がご自分の子らを愛しておられるからです。捨てられたのではありません。大過なく、思い通りになれば、世に走って行くでしょう。謙遜に見える人でも、権力や財力を握れば、高慢になってしまうでしょう。かえって困難を通して自分の無力を徹底的に悟れば、神様に立ち返って来るのです。体験があれば、分かち合ってください。



4 ユダは、大国エジプトと同盟を結んで助けてもらおう、と多くの贈り物を持たせて、使者を送りました。しかし、神様は、エジプトについて何と言われていますか。
・3-5節/


5 社会では、助けや贈り物をする時、見返りの期待や投資の意味合いがあると言われます。ましてや、国際社会では、なおさらです。エジプトを頼っても助けにならないと言うのは、ユダを助けても見返りがないと判断したか、王朝が変わった混乱期で助ける余裕がなかったようです。あなたが困難な時、どんな人の助けを思い浮かべますか。その人の立場になって考えると、どうなりますか。



6 頼みにできるように見えて、頼りにはならないエジプトを、「何もしないラハブ」と呼んでいますが(ラハブとは、ワニ(鰐)のことです。)、水の中で敏捷に獲物に襲い掛かる獰猛なナイルワニも、陸では静かにだらりと寝そべっているからです。勉強ができること、社会的地位を得ること、財産を手にすることなどを頼みにできると考えます。しかし、自然災害や社会的混乱が起これば、「寝そべっているワニ」に過ぎなくなります。あなたにとって、そのように見えたものがありますか。
・7節/


7 エジプトを頼りにするなというのは、単に頼りにならないからということを教えているのではありません。かつて神の民にとって、エジプトはどういうところだったのですか。どのようにしてそこから抜け出して来たのでしたか。
・出エジプト1:13~16/
・出エジプト3:7~8/

8 神の民にとって、エジプトは、奴隷の境遇から大変な思いをして抜け出して来たところです。もう戻ってはならないところ、神様のいないところ、罪の囚われ人となるところ、という霊的意味があります。世の何かをエジプトのように頼りとするということは、元の神様のいない人生へ戻って行くことになるという警告です。使徒パウロの証しを読んで、感じるところを分かち合いましょう。
・6節/
・ガラテヤ6:14,17/

「命の実を刈り取ろう」

 今日多くの神の民が、自分の助けとなる「ワニ」を探してします。頼りにならないどころか、逆に襲われてしまいます。もう神様のいないところ、罪の奴隷に戻ってはなりません。私たちは、イエス様の十字架という尊い犠牲によって救われた者です。見捨てられたように見えたとしても、ただ終わりまで神様に信頼しましょう。助け出してくださり、必要を満たしてくださいます。神様を頼りとしないとは、何と愚かで申し訳ないことでしょうか。イエス様に出会ったこと、聖書の神様を知ることができたことが、どれほど恵みあることか。学びを通して与えられた心の変化があれば、証ししてください。

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