小グループで聖書を学ぶ

55.救いの賛美(イザヤ30:27〜33)

「心の門を開いて」
 
 私たちのうちには、神様はどうして悪者をそのままにしておかれるのか、なぜ辛く苦しい状態にある神の民を助けないのか、という疑問や反発があります。はたして、そうなのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 人々は、神様は目に見えないと言います。しかし、稲光が走るようになる時、風や激しい雨、大きな雹が降り注ぐような時、聖書では何を感じるようにと言っていますか。
・27-28,30節


2 アッシリヤがエルサレムに進軍してくる時、空が暗くなり、時期はずれの雷鳴が轟き、稲光が走ったのでしょう。それは、アッシリヤの高慢と悪行に神様が怒られ、とうとう乗り出されたということです。一方、神の民には、神様の哀れみと慈愛の御顔を見せてくださったことになります。御言葉の恵みに励まされ、力をいただく時、神様の御顔が自分に対して照り輝くのです。神様の愛と守りの証拠です。あなたに対する神様の御顔はどうですか。



3 神の民は、アッシリヤのような悪辣な国がなぜ存在し、神の民を痛め付けるのか、理解することができませんでした。この問題は、私たちにとっても重要な問題です。どうして、悪い状況をそのままにしておいて、ご自分の民が苦しむままにしておかれるのか、と憤慨し、悩むのです。神様のご計画を見てみましょう。どうなりますか。
・31-32節/


4 神の民が罪や悪について深刻に考えていないということは、重要な問題です。いつでも、自分で罪に打ち勝ち、状況を判断できるのに、神様が干渉して来ると考えるのです。都合の良い時だけ出て来て、というご都合主義信仰です。それで、神様は一時的に悪を統制しないで、そのままにして置かれるのです。その結果、アッシリヤのような者が出て来るのです。これについて、どう思いますか。


5 アッシリヤのような人を見て、批評するのではなくて、同じものを自分に見出して、悔い改めなければなりません。本当の悔い改めは、自分の罪を憎んで、嫌悪することから始まります。そうしないと、どうなりますか。(トフェテとは、焼却場のこと)
・33節/


6 滅亡寸前のユダが救われて、凶暴なアッシリヤが裁かれるという出来事は、出エジプトの出来事と同じだと言っています。どんな出来事でしたか。どういうところが共通していますか。
・29節/
・出エジプト12:7,11-12

7 イスラエルの民には、小羊をほふり、羊の血を門柱と鴨居に塗るようにさせ、血の塗られたイスラエルの民の家は災いが過ぎ越され、守られて、エジプトを出ることができました。それは、途方もない神様の裁きと守りとして記憶され、守られて来た「過越の祭りの歌」でした。外にはどんな災いが襲うとも、その小羊の血に守られたのです。それは、何の型として、新約聖書に教えられていますか。(参考/マタイ26:2, ヨハネ1:29,36)
・Tペテロ2:24/

8 アッシリヤの攻撃の時、エルサレムの滅亡は誰が見ても明らかでした。しかし、主の御使いがあらわれて、その夜アッシリヤ軍が倒されました。滅亡するしかないようにユダの民が生き残り、勝利確実のアッシリヤ軍が敗退しました。だから、過越の祭りのように、心いっぱい救いの歌を賛美したのです。私たちはその約束の中にあるので、いつでも賛美するのです。この賛美の恵みをどう思いますか。(参考/使徒16:24~26)


8 問題や患難の中にある時、どれほど憂うつで重苦しいことでしょうか。どれほど不安で心配でしょうか。しかし、私たちは、滅びからイエス様の犠牲によって救われたのです。だから、私たちも救いの歌を歌うのです。心いっぱい神の救いの御業を褒め称えるのです。そのような体験があれば、分かち合ってください。


「命の実を刈り取ろう」

 神様が介入されれば、状況はくつがえり、一変するのです。ですから、困難な状況だけを見ないで、生きておられる神様を見なければなりません。神様に動いていただくことを考えるのです。30節。神様が動かれるなら、すべては変わります。ですから、途中で自暴自棄になることなく、どんな時でも、過越の御業をされる神様に拠り頼み、期待するのです。すべての可能性が終わるところから神様は事を行なうことができ、私たちに絶望しかない時に動き始められるお方なのです。信仰の思いが変わりましたか。

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