小グループで聖書を学ぶ

3 のんきな者、うぬぼれている者よ (イザヤ:32:9〜20)

「心の門を開いて」
 
 自分を取り巻く環境が大きく変化している時、それに対処することなどは考えず、このままで大丈夫だと安逸に逃避する人がいます。このままうまく行く、思うようになるはずだという勝手な思いを持つのです。ユダの神の民もまた、このような安逸主義に陥っていました。私たちは、どう対処したらいいのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 アッシリアの侵略に備えて、指導者たちがエジプトに頼り、間違った導きをして、南ユダ王国を滅びに向かわせていた時、女性たちはどうしていたのでしょう。
・9節/


2 まもなくアッシリアが攻めて来て、エルサレムも廃墟となるということを知らなかったために、のんきにしていたのでしょうか。うわさ話にはのぼっていても、あまり気にしていなかったようです。私たちのエルサレムが陥落するはずがないとうぬぼれていたのでしょう。どうして、指導者でもない女性たちに警告されているのでしょうか。



3 のんき、のんびりというと、あまり悪い印象はないかもしれません。しかし、「のんきに、うぬぼれている」ことは危険です。「のんき」と訳された同じ言葉が使われている箇所を参照してみましょう。「安らか」「安逸」などと訳された引用箇所では、「安らか」だと思っている人がどんなことをしていますか。安逸をむさぼっている人がどのようになると警告されていますか。
・アモス6:1,3/
・ヨブ12:5/
・ゼカリヤ1:15/

4 女性たちは、家庭を預かり、支えている人たちです。その家庭の要が、のんきに、うぬぼれていたら、民全体がそうなってしまうでしょう。女性たちが神様から離れ罪に陥っていたら、家庭の中に罪が深く浸透します。影響力は、大きいのです。民の置かれた状況は、今や危急存亡の時です。一年後にはどうなると警告されていますか。それは、どういうことを意味していますか。
・10節/

5 警告された女性たちがすべきことはなんでしょう。どのようなことをするように命じられていますか。それは、どんなことを意味していますか。
・11〜14節/


6 ユダ王国は、侵略を受けて破壊され、民がどこかへ連れて行かれると警告されています。悔い改めることが必要でした。「のんき、うぬぼれ」という思いは、自分中心であり、別に変わらなくてもいい、何とかなる、私は特別だ、自分の思うようになるだろうという肉の思いです。人の肉の思いは、自分が変わりたくない、このままでいい、何とかなるだろうという安逸主義に陥らせます。しかし、それは、私たちを罪の縄目でしばり、私たちを滅びに向かわせるサタンの誘惑です。そのような誘惑を受けたことはありませんか。それは、どんな時でしたか。



7 天候不順、暴風雨などによって、田畑が荒地と化すこともあります。大災害によって、町や都市が破壊され、荒涼とした光景に変わることもあります。私たちの置かれている状況がいつ変化するか分かりません。家庭や職場の環境がいつまでも同じとは限りません。でも、急変するその時、私たちのすべきことは、絶望することでも、状況を嘆くことでも、人を恨むことでもありません。どう受け止めることが大切ですか。
・申命記31:8,/
・Uコリント4:8〜9/

8 神の民にとって、破壊や荒廃で終わりではありません。神様のご計画は、苦難やわざわいが目的ではありません。どういうものですか。悔い改めるユダの民に対して、神様はどうしてくださると約束されていますか。
・エレミヤ29:11/
・15〜17節/

9 神の民として回復される聖徒たちは、何をすることができるようになりますか。「のんき」と訳された「シャナーン」という言葉は、ここでは「安らかな」と訳されています。イエス様を救い主として信じるならば、荒野のような人生が園に変えられる始まりとなります。イエス様の救いの中にあって、人はどのようなものを得るようになりますか。
・18,20節。
・マタイ11:28〜29/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様をわが救い主と告白し、人生を委ねるときから人生が始まり、主の御手の中で憩うことができ、たましいに安らぎが来ます。福音の特徴は何でしょう。イエス様の身代わりの十字架によって信じる者の罪が赦され、命が回復され、心が「安らか」になるのです。信仰と言っても、御霊によって造り変えられないなら、その生活は生まれたままで生きるものであり、「のんきに、うぬぼれている」生活です。きょうの学びを通して導きを受けたことは、何ですか。分かち合いましょう。マタイ11:28〜29。

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