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7 やる気を失わせる言葉の攻撃 (イザヤ36:1〜10)

「心の門を開いて」
 
 今日の箇所は、アッシリアの攻撃を扱っています。しかし、武器での攻撃ではなく、言葉による攻撃です。私たちも、しばしば言葉による攻撃を受けることがあります。特に信仰のやる気を失わせるような攻撃は、辛いし、苦しみます。神の民はどう受け止め、対処したのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ヒゼキヤ王の時、アッシリアは大軍を送って来ました。どのようなことが起こっていますか。観察して、登場人物、場面の状況を把握しましょう。
・1〜3節


2 苦しい状況です。ヒゼキア王は、大変信仰的な王様ですが、信仰的でなかった父アハズ王は、アラムと北イスラエルから攻められた時、金、銀をアッシリア帝国にあげて、助けを頼みました。その結果、アッシリアは二つの国を攻め滅ぼすだけでなく、ユダまで攻撃し始めました。そもそも、父アハズ王がアッシリアを引き入れてしまったのです。あなたがヒゼキヤ王だったら、どう思いますか。
・U列王16:3〜4,7〜9/
・U列王18:3〜5/

3 ヒゼキヤ王にすれば、「私は、ずっと御言葉に純粋に従おうと努力してきたのに、父のせいで災難にあっている」と落胆し、恨みたいところです。私たちも、自分は信仰に忠実に歩もうとしているのに、周りの人のせいで苦難に会うこともあるでしょう。「私はイエス様を信じて、御言葉に生きようとしているのに、こんな状態になるなんて!」と心がしおれ、恨みに思い、やる気を失いそうになったことはありませんか。



4 アッシリヤ王がラブ・シャケをエルサレムに遣わしたのは、ユダを脅かし、あざけって降参させるためでした。これは、人がやっとのことで事をなそうとしている時、その人が持っている弱点や問題点を暴いて、責めて、あざけり、その結果、やる気を失わせ、その人自身が自暴自棄になって倒れるようにさせるやり方です。何について、どんなふうにあざけっていますか。
・4〜6節/

5 ラブ・シャケは、繰り返し、言葉を変えて、エジプトを拠り頼んでもむだだ、とあざけっていました。さらに信仰に関してもあざけり、信仰のやる気を失わせようとしています。どんな表現ですか。あなたも、このようなことを言われたことがありませんか。
・7,10節/


6 ヒゼキヤが、宗教改革によって偶像をみな片付けてしまったので、災いに会っているのだ、ヒゼキヤのせいだ、と民に思わせようとしました。主がユダを懲らしめようとアッシリアを遣わしたと言っています。神の民には、おかしい考えですね。私たちは、人からあざけりを受ける時、その言葉が妥当に思え、その言葉のままにしおれて、やる気を失いがちです。どうすれば、騙されている、でたらめだと悟るようになるでしょうか。
・詩篇42:2,73:17/


7 ラブ・シャケのあざけりはエスカレートして、ユダの人々が無能で、力がないとさげすんでいます。そんな時、神の民は、どう受け止めればいいのでしょうか。
・8〜9節。
・Tペテロ21〜23/

8 私たちは、自分へのあざけりを聞く時、的確なことを言われれば、謙遜に聞いて、自分を整えることも必要です。しかし、人のするあざけりや攻撃する言葉は、真実よりも大げさに表現し、脚色し、弱点や問題点を突き、やる気を失わせようとして、言うのです。サタンが、人のあざけりを通して私たちを騙そうとしています。心にためてはいけません。その言葉自体が毒だからです。どうしたらいいですか。
・マタイ4:3〜4/


9 ラブ・シャケのあざけりの主題となっている表現は、どんなことですか。神の民にとって大事な信仰の要点は、神様に対してどうすることですか。ラブ・シャケが、5回も繰り返している表現に目をとめましょう。


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、私たちを無気力にさせる毒をどれほど聞いているでしょうか。神様の御前に出て、祈ることです。失敗や過ちは謙遜に聞いて、毒のあるあざけりは、心で反芻してはいけません。大事なことは、中途半端ではなくて、徹底して神様に拠り頼むことです。信仰の勝利があります。よく聞くならば、ラブ・シャケは、あざけりの中で、「おまえは何に拠り頼んでいるのか」と問いかけ、「おまえは私に『主に拠り頼む』と言っていた」と思い出させています。神様の示し方です。今日の学びを通して、どんなことに気付き、どんな導きを受けましたか。箴言3:3〜5。

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