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10 主に祈ったので (イザヤ37:21〜38)

「心の門を開いて」

 本当に熱心に信仰生活をしているにもかかわらず、患難に出会うと、どうして神様はこのようなことを私にと、不満や疑いが生じ、神様から心が離れるかもしれません。絶望的な状態の中で、最後まで祈り続けたヒゼキヤを神様はどうしてくださったのでしょう。試みに会う私たちを神様がどう取り扱ってくださるかを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ヒゼキヤ王は、アッシリヤからあざけりと侮辱を受け、降伏を迫られていました。ヒゼキヤは、必死になって神様に祈りました。心のうちを申し上げました。すると、何が起こりましたか。
・21節/


2 ヒゼキヤが祈ることを待っておられた神様は、ヒゼキヤが、アッシリヤの王セナケリブについて主に祈ったことを聞いて応えてくださいました。これは、私たちが苦難に会い、心くじける時にすることと同じでしょうか。(参考/マタイ11:28, ヤコブ5:13)



3 ヒゼキヤが主に祈ったことを主は聞かれたと書かれていますが、他の訳では、「祈ったゆえに」とか「なぜなら祈ったので」とか「彼の祈りに応えて」などとなっています。主が応答してくださったキーワードは、「主に祈ったので」ということです。あなたは、このようなインパクトのある祈りができることを知っていますか。祈って応えられた時、「主に祈ったので、神様が働いてくださった」ということを認識していましたか。(参考/U歴代33:12〜13)



4 ヒゼキヤ王やユダの民へのあざけりは、誰に対するものだと言われますか。イエス様を信じて、御言葉のままに生きようとしている者や教会をあざけり、敵対する人々もそういうことだとしたら、あなたはどんな思いになりますか。
・6,23節/


5 24〜25節で言われていることは、アッシリヤの軍隊が征服できない所はないということです。何でも自分の力でできる、何でも自分がやったことだと高慢になるアッシリヤ的な現代人の多くが、人は何でもできる、人は何でも知っている、世界を支配しているのだと思っています。でも、そうなのでしょうか。人は、どんな存在だと言っていますか。
・24〜25節/
・26,28節/

6 私たちは、日常の行動や感情のすべてが神様に知られています。いきりたつのもですよ。人を造られ、命を与えた神様は、人がどのように生きるのか、見守っておられ、期待しておられます。私たちを愛し、守り、導き、用いようとされておられるのです。それは、なぜですか。どうしてくださったからですか。
・Tペテロ2:24〜25/
・ヨハネ1:12/

7 ヒゼキヤの祈りに対する応答が告げらされています。その内容は、どういうことですか。ヒゼキヤの祈りの応えとして与えられた神様の約束の特徴は、どんなことですか。
・33〜34節
・詩篇121:3〜4

8 「主の熱心がこれをする」と言い、「主がこの町を守り、救う」と言われます。何と単純で生き生きとした応えでしょうか。神様が自分のために働いてくださる方だと知っているでしょうか。確信していれば、どれほど平安を与えられることでしょうか。「彼はこの町に侵入しない。攻めることもない。彼は引き返し、この町には入らない」という約束は、どのように実現しましたか。さらに、アッシリヤ王自身には、どんなことが起こりますか。
・36節/
・37〜38節

9 同士討ちか疫病か、何があったにせよ、神が働かれたのです。驚くべき勝利です。主なる神をあざけり、ヒゼキヤをあざけった傲慢なアッシリヤ王の最期はあっけないものでした。ですから、どんなことがあっても、信じて終わりまで祈り耐えることです。どんなに状況が絶望的であろうと、落胆しないで、主に拠り頼み続ける者が、自分のために戦われる神様を知ることができます。「彼が祈ったので」神様が応えてくださいました。このような自分の願いと思いをはるかに越えた祈りの結果を経験したことがありますか。(参考/エペソ3:20〜21)


「命の実を刈り取ろう」

 アッシリヤ王の最期を見る時、困難や問題を神様の目で見ることがどれほど重要であるかが分かります。信仰者が、困難に陥り、絶望的な状況の中で、しばしば神様から心が離れることは残念なことです。祈っても聞かれないと思ってしまうのも悲しいことです。御言葉に従って信仰に生きたヒゼキヤは、患難と絶望の状況で、祈りました。「祈ったので」最後まで耐えることが出来ました。「彼が祈ったので」神様が応えてくださいました。ヒゼキヤ王の祈りと神様の応答を学んで、心に受けた導きは、どんなことですか。

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