小グループで聖書を学ぶ

11 苦難が続く中で (イザヤ38:1〜8)

「心の門を開いて」

 何か問題を抱えているところに、別な患難が加わって来るということがあります。それはあまりにも厳しい辛い状況です。ヒゼキヤ王が、アッシリヤの脅威に対峙していた時のこと、ヒゼキヤ王自身にも大きな患難が加わっていました。そのような状況でヒゼキヤ王はどうしたのでしょう。患難に患難が加わる時、私たちはどうするのでしょう。ヒゼキヤの姿から学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 38,39章は、色々な理由から36,37章の前に起きたことのようです。アッシリヤが大軍をもってユダに進入して来たという大きな患難の時、ヒゼキヤ王は、個人としても、患難と向き合っていました。そんな状態の中、民を励まし、戦おうとしていたのでしょうが、預言者を通して、ヒゼキヤに聞かされたことは、どんな知らせでしたか。
・1節/


2 ヒゼキヤが抱えていたのは、敵の大軍とともに、自分自身の重い病気でした。たとえば、難しい仕事を負いながら体調も悪くなったとしたら、経済的苦しさを抱えているのに家族に問題が起きたとしたら、一般的に人々はどうなると思いますか。苦難に苦難が重なるなら、人々はどうすると思いますか。



3 今やヒゼキヤ王の状況は、完全に自暴自棄に陥るものでした。最も絶望的な状況で、ヒゼキヤ王にできることは何かあるでしょうか。すべてを放棄して、その時が来るのを待つだけなのでしょうか。嘆いて神様に怒りをぶつけることでしょうか。信仰の人ヒゼキヤは、そうしませんでした。何をしましたか。どんな様子ですか。
・2〜3節/


4 「顔を壁に向けて」というヒゼキヤの姿は、ただ主だけに心を向け、神様だけにしがみついて、一心不乱に祈っている姿です。ヒゼキヤは、泣きながら祈っていますが、ただ泣くというより、痛哭や慟哭という激しい泣き方です。それで、どんな祈りをしていますか。人がそのような状況で祈るであろう祈りと何が違いますか。


5 ヒゼキヤは、「寿命を延してください。病気を治してください」とは祈っていません。心を尽くして、国を守ろうとしている最中です。残念でならない、道半ばという思いでいっぱいだったでしょう。今王がいなくなったら、ユダの民はどうなるか。混乱は必至です。ただ、「再び立ち上がって、主の働きをさせてください」と祈りました。ヒゼキヤの慟哭の祈りに対して、神様はどのような応答をしてくださいましたか。
・4〜6節/


6 ヒゼキヤの祈りは、自分が神様に懸命に仕えて来たことを思い出してくださいと祈ることによって、民のために仕えてさせてくださいと要請したということです。ですから、この15年は、ただ寿命が延びたことを喜ぶのでなく、どのように生きるための15年とならなければならないでしょうか。私たちは、イエス様の犠牲によって永遠のいのちを与えられています。どのように生きるいのちとならなければならないでしょうか。
・Tヨハネ5:13/
・Uコリント5:15,マルコ10:45/

7 私たちも、もはや自分の肉の思い中心に生きるのではなく、家族のため、友人や地域の人々の救いと導きのために、それぞれ置かれたところで神様の業を担うべく生かされているということを覚えたいのです。神様は、そのために、ヒゼキヤの寿命を延す約束だけでなく、アッシリヤの侵略から、ヒゼキヤとユダを救ってくださる約束をしてくださいました。この約束のゆえに、ヒゼキヤは、アッシリヤの大軍に囲まれて、滅亡寸前まで行っても、神様を信頼し続け、民を励まし続けたのだ、と理解できます。これを知って、あなたの思うことは何ですか。


8 苦境のゆえに、神様は約束の言葉だけでなく、どうしてくださいましたか。これが奇跡か自然現象かを論じるより、なぜこのようなことまで与えられたのかを考えましょう。
・7〜8節/
・士師6:36〜37/

9 ヒゼキヤは、神様からしるしを求めよと言われた時、素直に求めました。イエス様に救われた私たちは、どのような信仰をもって祈り求めるように言われていますか。
・ヨハネ1:12/
・マタイ7:9〜11/

「命の実を刈り取ろう」

 幼子のように神様の約束を信じたからこそ、ヒゼキヤはアッシリヤの侵攻と嘲りに耐え、民を導くことができました。神様は、イエス様の十字架の身代わりによって私たちを救い、私たちを神の子どもとしてくださいました。ですから、幼子のように祈るなら、応えてくださいます。学びを通して導かれたことを分かち合いましょう。

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