小グループで聖書を学ぶ

12 慟哭から感謝へ(イザヤ38:9〜20)

「心の門を開いて」

 この箇所は、ヒゼキヤ王が人生で最も苦しく悲惨な状態を経た時に書いた証し文のようなものです。9節。ヒゼキヤが経験した絶望感と恐れ、その心情の変化、信仰の変化を書き残してくれました。ヒゼキヤの経験したこの変化は、すべての人に必要だからです。この真実な信仰者の姿を見ることで、私たちも共感し、慰めと励ましを受けることができます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 まず、ヒゼキヤが死を覚悟した時にどんな思いになったかを記しています。ヒゼキヤは、どんなことを思い、苦しみや空しさを覚えたのでしょうか。
・10〜11節/


2 ヒゼキヤ王は、自分の人生が終わり、もう王の役目を担うことができなくなる、働きも中断され、人々とともに礼拝をささげることもできなくなる、そういう残念な空しい心情が表現されています。残念な空しい心情は、信仰者にとって何を思うとさらに酷くなりますか。ヒゼキヤは、どうなりましたか。
・12〜13節/


3 ヒゼキヤのように、自分は神様から見捨てられていると思えば、人生は空しく、働きも空しいとなります。何もかも終わりだと思うなら、苦しみや絶望は大きくなるものです。あまりに辛くて耐えられず、悶々としながら眠ることもできず、泣いて叫ぶという状況にもなるでしょう。私たちがそんな心境になる時、何を思い出すべきでしょうか。
・Uテモテ1:10/
・ルカ22:44/

4 私の救い主イエス様は、私のために苦しみもだえて、祈られました。ですから、私たちも苦しみもだえながらイエス様に祈ります。どんなに絶望的な状態になっても、何もできない何もないように見えても、あわれんでくださる神、愛してくださる主がおられます。ですから、ヒゼキヤは悲しみと絶望の中で慟哭し祈りながら、どうしましたか。私たちもそのようにできます。なぜですか。
・14節/
・Tヨハネ2:1, ローマ8:26/

5 苦しくて、空しくて、どうしようもないなら、私たちにできることは最後まで祈り、訴えることです。ヒゼキヤは、私の保証人となってくださいと祈り願う中で、どこまでも主が自分と共におられ、自分に語り、自分のために働かれておられたことを悟りました。私たちが、主を信頼して、祈り願うと、御言葉が心の耳に響いて来ます。神様のこれまでの守りや導きを思い出します。そのような経験を分かち合いましょう。
・15節前半/
・5節,詩篇107:19〜20/

6 慟哭の祈りに神様が応えてくださったことを知ったヒゼキヤは、叫びやうめきの祈りではなく、どう祈るようになりましたか。神様にどのように対していますか。
・15〜16節/


7 ヒゼキヤは、「たましいの苦しみのために、静かに歩みます」と、心が苦しくても、病気であっても、神様の御言葉をつかんで、確信をもって静かに歩むように変わりました。御言葉に従って歩みます、と応答しています。さらに、どんな祈りに変化しましたか。
・17節/


8 祈りの応答を受けて、感謝の祈りをささげるようになりました。私たちも、苦しみと悲しみの中で、神様に祈り、涙を流しながら訴えるなら、私たちにも応えてくださいます。何と、ヒゼキヤは、「私の苦しんだ苦しみは平安のためでした」と言っています。自分の苦しみが有益だったと告白しています。どういうことだと思いますか。(参考/詩篇119:71,エレミヤ29:11)


9 この苦しみを通して、神様の助け、罪の赦しと体の癒しを経験し、主にある平安を与えられました。苦しみを通して、真実に神様を信じるようになり、全面的に主に拠り頼む者となり、真の平安を与えられました。ヒゼキヤは、もがき苦しんでいた「滅びの穴から引き戻され」て、ついにどのように神様に応答するようになりましたか。
・19〜20節/
・詩篇40:1〜3/

「命の実を刈り取ろう」

 神様の偉大な恵みを体験した人は、自分がなぜ生きるのか知るようになります。それは、滅びから救い出してくださる主を証しすることです。生きている間にイエス様に出会い、福音を聞き、救われなければならないからです。ヒゼキヤは、はじめ慟哭しながら、苦しみもがいて祈りました。慟哭の祈りに対する神様の応答を確信するようになりました。静かに応答する祈りに変わりました。祈りの応答に感謝して、賛美するようになりました。このような祈りの変遷から学んだこと、感じたこと、体験したことを分かち合いましょう。

戻る