小グループで聖書を学ぶ
14 慰めよ。慰めよ。わたしの民を (イザヤ40:1〜11)

「心の門を開いて」
 
 国が滅ぼされ、バビロンに捕囚されるという預言を受けただけなら、神の民は恐れと絶望に打ちひしがれてしまいます。しかし、ご自分の民を愛され、顧みてくださる慈愛の神は、バビロン捕囚のさらに先の預言を教えてくれました。それは、私たちのためにです。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 人は、ひどい状況になる時、落胆し、絶望します。それがどうにもならない、変わりがないように見えるならば、苦しくて、辛くて、悲しくて仕方がない思いになります。そんな思いが続くならば、体や心まで痛んでしまいます。今ユダの民には、考えられないような患難が近づき、それが来ればもう何もかも終わり、望みもなく、滅亡しかないという思いになっています。主なる神は、そんな神の民に何と言われていますか。
・1節/


2 「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる」というのは、神様がご自分の民を慰めてくださるという約束です。神様は、暗たんたる思いの中にいるご自分の民に、慰めが溢れることを約束されましたが、慰めの内容は、何ですか。
・2節


3 ユダは、その不信仰のために、バビロンによって国が滅ぼされ、捕囚となるけれども、捕囚期間という罪の代価が支払われて後、再び戻ることができるということです。そして、祝福が与えられるというのです。もう終わりだ、もう変わらない、もうだめだとしか見えない時、その先の展開があるというのです。この約束は、今も人生途上での様々な苦難や問題によって苦しみ、悲しんでいる者にとって大きな慰めです。この慰めを聞くことのできる私たちは幸いです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。
・Tコリント6:20/


4 イエス様を信じ、主の十字架によって救われたというなら、私たちも、この神様の慰めの御言葉を苦難の中で聞くことができる者となっています。イエス様の十字架の死という罪の代価が支払われたためです。様々な苦難や問題に労苦する私たちも、「あなたの労苦は終わります。その咎はキリストの十字架のゆえに贖われました。主の祝福と恵みを受けなさい」という主の「慰め」を聞くことができます。どう思いますか。

5 神様の慰めの内容は、歴史的には、ユダの民がバビロンに捕囚になって70年が過ぎると、バビロンは滅び、神様がペルシャの王クロスを用いて、エルサレムに帰してくださるというものです。バビロン捕囚からの帰還をどのように表されていますか。
・3〜5節/


6 王様が大軍を率いて荒野を進む場合、先触れの者は、道を平らにして、山を削ったり、谷を埋めたりして道路を整えたそうです。このように神様がご自分の民を率いて、帰らせてくださるというのです。私たちの人生でも、患難や問題で荒野のような人生となったとしても、道を開いてくださいます。あなたの人生は、どうですか。



7 その福音の内容について記されています。人という存在をどのように譬えていますか。そのような人間が、イエス様の十字架と復活によって救われるならば、どのようになると約束されていますか。(参考/Tペテロ1:23〜25)
・6〜8節/
・ヨハネ5:24,Uコリント5:17/

8 人がすぐに枯れてしまう草や花のようなはかない存在であるならば、生まれて来た意味が分からず、労苦して人生を過ごし、やがて死んでしまうのか、という空しさに打ちひしがれるでしょう。イエス様の十字架の死という代価をもって買い取られた者は、天国へ続く命を与えられ、造り変えられた新しい人ととなって生きて行きます。救われて、新しい命に生かされている者は、何をしなければなりませんか。
・9〜11節
・イザヤ52:7/

9 バプテスマのヨハネが「荒野で呼ばわる者」と言われています。ルカ3:3〜5「主の栄光」こそが、イエス様です。救いの恵みにあずかった私たちのするべきことは、絶望と空しさに陥っている人々に「良い知らせ」すなわち福音を伝えることです。福音を伝える者には、今日の箇所からどんなことが必要だと思いましたか。(参考/Uコリント1:4〜5)


「命の実を刈り取ろう」
 
 神様は、御力をもって反抗する者をも福音でとらえて、御言葉によって造り変え、神様に従う忠実な者としてくださいます。福音を伝える者は、恐れないで、躊躇しないで、やさしく語りかけ、慰め御言葉を伝えるのです。救い主イエス様を見てください、と証しします。そして、良き知らせを伝える者自身の確信が大切です。問題で労苦し、希望を失い、苦しみ、悲しんでいる者の心の傷をいとうように、主が優しく語りかけてくださいます。あなたへの慰めのメッセージを聞いて、受けたことは何ですか。Tペテロ2:25。

戻る