小グループで聖書を学ぶ

20 聞こえない者、見えない者よ(イザヤ42:17〜25)

「心の門を開いて」
 
 人は、人生という道で迷うことが多いものです。神様は、私たちの人生の道を導いてくださるのですが、神の民は、神様の導きに従わず、間違った道へ進みました。なぜ神の民がバビロン捕囚となったのでしょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 神様は、私たち一人一人を成熟させ、神様の御心を悟ることを願っておられます。神様は、私たちの方が御言葉を読み、聞いて、黙想し、神様の御心を悟るようにしてくださいます。ところが、ユダの民は、神様の導きを好まず、他に向かいました。何に従ってしまいましたか。どうして、そうなったのでしょうか。
・17節/


2 神の民は、肉の欲を満たしてくれと偶像に頼みました。人の罪の性質には、どうしても、肉と欲を満たそうとする強い思いがあるからです。偶像は、すべて肉と心の思うままにできるので、とても都合がいいのです。結局、ユダの民は、自分の肉と欲の思いをそそのかす偶像に向いてしまったのです。自分の我の思いを満足させるために生きる人は、言わば偶像崇拝者と言えるでしょう。そういう意味では、彫像や鋳像ばかりでなく、私たちの心にも見えない偶像があるのではないでしょうか。あなたは、どうですか。
・エペソ2:1〜5/


3 今ユダの国は滅びようとしています。間もなくバビロン軍が攻めて来て、エルサレムを陥落させ、神殿を燃やして、人々を捕囚とします。その原因はどこにあったのでしょうか。ユダの民、とりわけユダの指導者がどうであったか確認しましょう。
・18〜19節/


4 自分の肉の思いが中心で、自分の我を通すために御言葉に聞こうとしなかったために、本来神様の御言葉を伝え、民を神の御心に導くべき神のしもべたちが、盲目の者、聞こえない者となっていました。信仰的なことが見えなくなっている者が、信仰に目を開くように、神の御声を聞かなくなっている者が、御声を聞くようにということです。彼ら自身が、霊的に耳の聞こえない者、目の見えない者であるのを悟れと言っているのです。この神の民の姿を見て、どう思いますか。


5 聖徒たちにとって最も恐ろしいことは、御言葉を聞こうとしないことです。教会で最も恐ろしいことは、御言葉が語られないことです。当時教える者たちは、神の民の肉と欲を満足させるようなことを語っていました。人は、自分の肉の思いに合うことを言ってもらうように願い、要求するものです。語る者も、迎合してしまいます。どう対処しますか。



6 本来神様の御言葉を伝え、民を神の御心に導くべき神のしもべたちが盲目の者、聞こえない者となっていました。そのような人々が導けば、間違った道に行くでしょう。民の指導者は、御言葉を聞いていなかったのでしょうか。知らなかったのでしょうか。彼らは、救い主イエス様が来られた時、イエス様から人々を離そうとしていたパリサイ人と同じです。民の指導者パリサイ人について、イエス様は何と言われましたか。
・20節/
・マタイ15:14,ヨハネ9:41/

7 彼らが目の見えない者、耳の聞こえない者となったのは、御言葉を窮屈な狭い考えだとみなしたためです。神様がすべてのことを御手に治めているのですから、神様に聞き従うことが、世で幸いに生きるためには大事だということになります。神様は、ユダの民が御言葉を知るだけでなく、どのようになることを望まれましたか。
・21節/


8 肉と欲を満足させる姿は、人の目には豊かな人生と映るかもしれません。人よりも所有して、やりたいことをやって、感情のまま怒りをぶちまけ、自分の思いを優先して争います。その結果は、一時的な満足であり、空しさと不満の残る人生となります。肉と欲を満足させる姿は神様の目に悲惨な人生と映ります。神様の目に美しく見えるのは、御言葉に従って生きる人の姿です。私たちは、どうすればいいでしょうか。
・23節/
・ガラテヤ5:24〜25/

9 彼らのその罪の結果、神の裁きによって、捕囚となりました。捕囚になったからと言って、見捨てられたわけではありません。愛するがゆえに懲らしめ、立ち返りを待ち望み、霊的成長を求められました。そのために、イエス様はどうされましたか。
・24〜25節/
・Tペテロ2:24/

「命の実を刈り取ろう」

 神の民は、自分たちが御言葉に聞き従わなかっただけでなく、他の人を神様から離し、滅びの道へ向かわせてしまいました。神の民の人生は、自分のためだけの人生ではありません。イエス様の十字架の福音によって、肉と欲に囚われていた者に対して、素晴らしい愛と恵みあふれる赦しの福音が与えられています。きょうの学びを通して、神様の恵みにどう応えていこうと導かれましたか。マタイ5:13〜14。

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