小グループで聖書を学ぶ

21 新しい事が起ころうとしている(イザヤ43:14〜28)

「心の門を開いて」

 昔はよかった。以前のようにはならない。人はしばしば現実を否定し、将来を悲観して、そう言います。私たちはどうでしょうか。過去の出来事に囚われていないでしょうか。過去のことで現在のことを決め付けていないでしょうか。聖書から学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 神の民は、自分たちの国が滅び、バビロン捕囚になるような患難が起こるなら、もう見捨てられた、神様は頼りにならないと絶望しました。何と言われましたか。特に神様についてどう言われていますか。
・14〜15節/


2 「あなたがたを贖われた聖なる方、創造者、王」とは、神の民の先祖たちを救い出した神様であり、この時も変わりなく、助けてくれる方だということを強調しています。それなのに、バビロン捕囚から帰還することができるという知らせを受け止めることができませんでした。なぜでしょう。出エジプトの状況を取り上げている理由から考えましょう。
・16〜17節/
・エレミヤ27:13〜14/

3 神の民は、偉大な過去にとらわれ過ぎました。それが肉のプライドとなって、出エジプトの偉大な民が、バビロンに滅ぼされるはずがない、捕囚に会うことなどありえない、紅海渡渉のような奇跡でバビロンを追払ってくれるはずだと思いたかったのです。このような肉のプライドについて、思い当たることが何かありますか。



4 出エジプトの紅海渡渉のような奇跡でバビロンを追払ってくれるはずだと思っても、状況はバビロンに滅ぼされそうな危急存亡の時です。もし出エジプトのようなことが起こることがなく、バビロンによって国が滅ぼされ、捕囚にされるならば、神の民はどう思うでしょうか。



5 バビロンに国が滅ぼされ、捕囚にされるならば、自分たちは終わりだとしか考えられませんでした。その先のバビロン捕囚からの帰還など思い描くこともできませんでした。過去の経験というのは、励みや希望の元になることもありますが、どこまでも経験であるがゆえに、それ以上のことはありえない、考えることができないのです。昔は良かったのに今はこんなだと嘆いたり、今まで出会ったことのない患難に絶望したり、過去見聞きして来た以外のことは考えられないと諦めるのです。あなたはどうですか。そういうことはありませんでしたか。



6 神様の導きを自分の経験知の中に押し込めるとすれば、あなたの神様はあなたの経験、ということになりかねません。私たちを贖われた聖なる方、創造主は、私を尊い者として愛してくださいました。私の救いのためにイエス様を世に遣わされ、十字架に渡されたほどの神様が、私の経験し考えること以上のことはできないというのでしょうか。
・ローマ8:31〜32/


7 確かに神様は、過去驚くべき方法で神の民を救って導いてくださいました。しかし、その過去の経験にプライドを持ち、経験知信仰という偶像から抜け出せないでいた神の民に対して、神様は何と命じられましたか。
・18節/


8 イエス様に救われた者は、御言葉の約束を握って生きる者となり、神様の導きを信頼して従う者となったはずではないでしょうか。彼らは過去にこだわる必要がありますか。過去のことを考えるな、思い出すなと言われるのは、どのような理由からなのですか。
・19節/


9 新しい日が大きすぎるため、出エジプトの過去経験さえも忘れてしまうほどだというのです。神様は、ペルシャ王クロスを用いて、エルサレム帰還と神殿再建の許可を与え、財宝も返してくれて、再建のための材料まで付けてくれました。こんな解放や帰還の出来事は考えも及ばないことです。バビロンに滅ぼされ、捕囚になってしまうような者たちが、なぜこのようなすごい解放と救いを受けるのでしょうか。
・25〜26節

「命の実を刈り取ろう」

 過去に囚われている罪を悔い改めて、新しい道を歩むことを神様は喜ばれます。「わたし、わたしはあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と強く宣言されました。イエス様の十字架を宣言されたのです。ヘブル8:12, 使徒3:19。過去の出来事や過去の問題に囚われていないでしょうか。そのために新しい歩みができず、希望が持てないようになっていないでしょうか。今日の学びを通して受けた導きを分かち合いましょう。エレミヤ33:3。

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