小グループで聖書を学ぶ

22 わたしの祝福を注ごう (イザヤ44:1〜8)

「心の門を開いて」
 
 神様に愛され、選ばれて、御言葉を与えられていた神の民がどうして偶像に走ったり、神様に背を向けたりしたのでしょうか。自分の思いだけになって、信仰がスランプ状態になっていました。私たちも、ときおり霊的スランプに陥ってしまう時があります。そのような神の民に対する神様の語りかけから学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 神様は、霊的スランプに陥っている神の民をどのように呼んでくださいましたか。元々は、誰のどういうことをあらわした呼び名でしたか。
・1節/
・創世記27:36,35:9〜10/

2 神の民をヤコブと呼ぶ場合は、御言葉によって変化する以前の罪の本性をあらわしています。一方、イスラエルという呼び名は、信仰の人として生まれ変わって、聖い者となった本性をあらわしています。神の民が捕囚となるのは、ヤコブとしての本性で生きていたためです。そんな神の民を、エシュルンと愛称で呼んで、どのようにすると言われていますか。それは、神の民に対するどのような思いをあらわしていますか。
・2節/



3 肉と罪の思いに長く囚われていた彼らは、神様から心が離れて、自分の思いで歩んでいました。それで神様は、親が子どもを愛称で呼ぶように「エシュルンよ」と呼んで、「わたしはあなたがたを生んで育てた神なのだから、わたしを信じて従って来なさい」と言われたのです。あなたが、そのように神様に言われたら、どんな思いになりますか。どうしますか。



4 ヤコブのように、人生の責任を自分では取れないことを、私たちの方で認め、神様に降参するなら、どうなりますか。私たちが立ち返って、神様を信頼して自分を委ねるならば、神様はどうしてくださいますか。
・3~4節/


5 神の民は、自分たちは信仰の力で生きなければならないということを忘れていました。私たちが、霊的スランプに陥るのも、同じです。自分の肉の思いでいっぱいになり、神様に拠り頼むことを忘れてしまうと、祝福を受けられず、心は渇いて、空しくなります。自分の肉のプライドにとらわれ、思い通りにしたいと葛藤し、世の価値観に支配されるならば、霊的スランプに陥ります。あなたは、どんな霊的スランプに陥ったことがありますか。



6 今は、イエス様が十字架にかかられたことによって天国の門が開かれ、イエス様を信じることさえすれば、誰でも、救われて神の民となります。悔い改めて、神様に立ち返るなら、霊的スランプから脱して、神の民として生きるようになります。霊的回復をした者は、何と言っていますか。それは、どういうことを意味していますか。
・5節/
・詩篇100:3/

7 「私は主のもの」だという思いがないから、自分の肉の思い中心になってしまいます。自分は自分のものだという思いになれば、肉や欲、様々な偶像に囚われ、空しさや葛藤も生じて来ます。主のものになることが、私たちにとって幸いなのです。神様が責任を取ってくださいます。6節は神様が主権者であることを意味しています。私たちがスランプから抜け出し、祝福を受けて生きるには、どんなことを覚えている必要がありますか。
・6節/
・ローマ6:6〜8,ヨハネ1:12。

8 私たちの人生の責任を取ってくださると約束しておられる神様は、私たちがスランプに陥ることなく、神様のものとして生きるために、何を与えてくださいましたか。
・7

〜8節/
・ヨブ22:22〜23/

9 神の民は多くの御言葉を与えられました。ところが、彼らは、その御言葉から耳を背けました。なぜですか。
・エレミヤ27:14/
・Uテモテ4:3〜4/

「命の実を刈り取ろう」

 ヤコブ的な人は、自分の都合の良いことを言ってもらおうとし、肉の思いに合うことだけを聞こうとします。人の目で見れば、自分の力により頼んで生きる方が確かで、神様に拠り頼む人は弱く愚かに見えるかもしれません。でも、自分中心ではなく、神様の主権に生きることが確かであり、幸いです。霊的スランプに落ちないように、「私は主のもの」だと宣言し、御言葉を握って、神様に拠り頼んで歩みましょう。今日の学びを通して、示されたこと、導きを受けたこと等を分かち合いましょう。詩篇100:3。

戻る