小グループで聖書を学ぶ

15 ご自分の民を弁護する神(イザヤ51:17〜23)

「心の門を開いて」

 9節に続いて17節でも、「目覚めよ、目覚めよ」と言っています。しかし、9節は人が神に対してであり、17節は神が人に対してそう言っています。それも、同じ動詞なのですが、9節では基本形であるのに対して、17節では強意の命令形となっています。なぜ、同じ言葉がこれほど表現も対象も違っているのかということから、大事なことを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 同じ「目覚めよ、目覚めよ」と9節で言っていました。捕囚になった原因は、神に背を向け、御言葉に聞き従わなかった民たちにあるのに、神様が私たちを見捨てられたと文句を言っていたのです。私たちを助けてくださらない神は眠っているのかと言ったのです。それとは対照的に、17節では、どのようなことが言われていますか。
・イザヤ51:9/
・17節前半/

2 神様に対して目を覚ましてくださいと言っていた民に対して、神様は、あなたたちこそ目覚めて、立ち上がって、現状をよくみなさいと強く言われたのです。苦難は続いています。どんな苦難が続いていますか。
・17節後半〜20節/


3 「憤りの杯を飲み」とは、堕落して偶像に仕えた民が、そのために国が滅び、捕囚になったことです。結局、暴行と破滅、飢饉と剣が民を襲いました。その惨状は、神のせいなのでしょうか。人はどうしても、誰かのせい、出来事のせいにしがちなのですが、問題に陥った時にどうすべきなのでしょうか。どうすれば、その窮地から出られると思いますか。



4 確かに民も、自分たちの責任に目を留めていないことに対して、「目覚めよ」と言われてしまうのは分かっています。しかし、問題が重なり、苦しんでいるのに、自分を顧みてみろ、自分に原因があるであろうと言われては、身も蓋もないでしょう。憐れみと慈愛に満ちた神様は、そんな指摘の中で、何と言われていますか。それは、どういう意味ですか。
・19節後半/
・詩篇121:1〜2/

5 神は、民を責めているのではありません。目を覚まして、立ち上がれ。苦しいことは続いているけれども、わたし、神は見捨ててはいない。助ける、守ると言われておられるのです。17~20節の苦難も、神は彼らの現状を知っているという慰めです。ですから、苦難の中で神への不信を抱くよりも、その苦しみの状況を神に訴え、聞いてもらうようにするのです。神は、どのようにしてくださいますか。
・21〜23節/


6 悔い改めて、主に信頼する民は神の憤りの杯を飲むことはないという慰めを与えています。そして、民を無慈悲に踏みつけたバビロンに憤りの大杯が臨むようになると言われています。このような神の慰めの言葉を受けた者は、その恵みにどのように応えるべきですか。あなたなら、どうしますか。
・箴言16:20,使徒3:19/(参考)
・ローマ12:19/(参考)

7 22節で「よろめかす杯を取り上げた。憤りの大杯をもう二度と飲むことはない」と約束されています。この杯は、神の御怒りを象徴しています。やがて、神の憤りの杯を罪人の代わりに飲んでくださる方が来られます。イエス様は、どのような姿勢で飲まれていますか。あなたがこれを読んで受けた印象は何ですか。
・ヨハネ18:11/
・マタイ26:39,42/

8 慰め深い神様は、22節で「主、ご自分の民を弁護するあなたの神」と言われています。弁護すると訳された言葉は、「努力する、争」という意味の言葉です。そういう意味での弁護なのです。イエス様が私たちのためにどうしてくださると教えていますか。何かの時に、自分のためにイエス様が弁護してくださるとしたら、どんな思いになりますか。
・Tヨハネ2:1〜2/(第3版も参照しましょう)


9 私たちに問題がある時に主が弁護士となって守ってくださるなら、信仰の人生はどれほど平安なことでしょうか。これこそ、本当の慰めです。今苦難がありますか。約束の御言葉をにぎって、拠り頼んで生きるように神様は命じておられます。どう応答しますか。
・ヨハネ14:27/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様の救いは、私たちに平安を与えてくださいます。ですから、イエス様を信じて救われた私たちは、問題に心騒がせてはなりません。苦難にひるんではなりません。 新しい年も、神の慰めとイエス・キリストの平安が私たちの生活を満たしてくださいます。気付きや決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。Tヨハネ2:1〜2。

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