小グループで聖書を学ぶ

17 神のしもべイエス様(イザヤ52:13〜15)

「心の門を開いて」

 人は、認められたいし、できれば尊敬されたいものです。何かのことで批判されたり、侮られたりすれば、落ち込んでしまうこともあります。きょうの箇所に登場する神のしもべの姿を通して、そのような時の慰めと励ましを学びたいと思います。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イザヤ53章は、有名な苦難のしもべ、つまりイエス様の苦難を預言したものですが、今日の52章13〜15節は、その序論となっています。まず13節で「見よ」と言って、注意を喚起していますが、どんなことが強調されていますか。同じような意味の言葉の繰り返しに注目してください。
・13節/
・ピリピ2:9〜11/

2 なぜ、苦難のしもべはこのように高くされ、栄えるようにされたのですか。高くされたということは、その前に低くされていたということになります。イエス様について、どのように説明されていますか。
・14節/
・ピリピ2:6〜7/

3 イエス様は、神の御子であり神の御姿であられたのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、十字架の死にまでも従われました。それゆえ、神様はイエス様を高くされ、栄光をお与えになりました。私たちもイエス様のようにへりくだって神様のみこころを成して行くなら、神様は私たちをどうしてくださると言っていますか。
・ヤコブ4:10 /
・Tペテロ5:6 /

4 へりくだる者を神様は高くしてくださるのですから、私たちは、高くなることを考える前に、自分を低くして、へりくだって仕えてみましょう。イエス様は、元来神の御子であり、神の御姿であられました。イエス様を信じて救われた私たちは、どんな者とされていますか。あなたは、そのことをどのように意識して生活していますか。
・ヨハネ1:12/
・イザヤ43:4/

5 救われた聖徒たちは、自分は神によって高くされている者だという尊厳をしっかり持つべきです。14節で苦難のしもべの様子を見て、多くの者が驚いたとあります。「驚いた」という言葉は、愕然とする、驚愕するという意味で、もう精神を失うというくらいの言葉です。どうして苦難のしもべを見た人々は、精神を失うくらい驚愕したのでしょうか。
・ガラテヤ3:13/
・マタイ20:19,/

6 私たちの罪のために栄光のイエス様がこんなにも低くなられ、こんなにも酷い目にあわされ、こんなにも人々に蔑まれたことを覚えましょう。私たちも、世を生きて行く中で、様々な苦難を受けます。評価されないばかりか、文句や批判を受け、侮られ、低く扱われ、悲しみ、落ち込むことがあるでしょう。この苦難のイエス様を思い出すことができれば、どのような気持ちになるでしょうか。どんなことを考えますか。
・Tペテロ2:20/(参考)
・Uコリント1:4〜5/(参考)

7 イエス様の十字架の犠牲があったから、私たちは救われ、罪赦され、天国への命が与えられ、神の恵みと守りを受けて生きる者とされているという栄光を忘れないでください。でも、イエス様の凄惨な十字架が、なぜ必要だったのでしょうか。15節で苦難のしもべがした衝撃的な行為は、何を示していることになりますか。同じ「血を振りまく」という言葉が使われている箇所を参照しましょう。
・15節/
・レビ記4:2〜3,6/

8 旧約時代、民の罪が聖められるために、祭司が供え物とされた羊の血を祭壇に振りかけるという儀式が行われていました。このことは、イエス様の十字架はどういうことになりますか。これを知って、どんな思いになりますか。
・ヘブル9:22,26/
・Tペテロ1:2/

9 イエス様の十字架の死が、自分の罪の聖めのための身代わりだと分かったならば、驚いて「口をつぐむ」しかありません。イエス様が十字架で血を流すことで世を聖め、復活することで、侮り、嘲る者の口を封じられました。私たちがどのように生きることが、愚かな人の無知の口を封じることになりますか。あなたが認められず、侮られ、軽く扱われたとしても、どのように生きようとしますか。
・15節/
・Tペテロ2:15〜16/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちがイエス様の十字架と復活の福音を知ることは、ただ教理として理解し、記憶することではありません。私たちがイエス様の十字架と復活を信じることで罪の囚われから解放され、救われた恵みによって生きていくことでなければなりません。今日の学びで受けた励ましや気付きを分かち合い、互いのために祈りましょう。Tペテロ1:2。

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