小グループで聖書を学ぶ

私たちの病を負い、痛みをになった (イザヤ53:1〜12)

「心の門を開いて」

 イースター・復活祭といえば、救い主イエス様が十字架の死からよみがえられたことの記念日、祝いの日ということで知られています。では、十字架の死と復活は何を意味しているのでしょう。私たち自身とどんな関係があるのでしょうか。「苦難のしもべ」の予言が、それを教えています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 救世主のイメージは、アニメの主人公から、新物質の発見まで様々ですが、一様に人の目を引くかっこいいものです。苦難のしもべとして知られているこの救い主の姿は、世の人々の救い主のイメージとはまったく違います。どんな様子ですか。
・1〜3節/


2 聖書の救い主は、人々のイメージとはかけ離れた、正反対の姿です。人々の目を引く魅力的な姿もなく、輝きもなく、美しさもありません。人々に酷くさげすまれ、尊ばれませんでした。人からそのように見られ、扱われたことがありませんか。



3 苦難のしもべの姿は、イエス様の地上の生涯そのものです。イエス様は、貧しい家で育ち、病気や怪我のために、痛みや後遺症も患ったことでしょう。その地方は、貧しさや災害のために移住して来た人々の住む所でした。「悲しみの人で病を知っていた」イエス様は、痛みや病、弱さや欠け、悲しみや苦しみを持っている人の心情を誰よりもよく知っておられます。救い主イエス様がそういう方だと知って、どんな思いを持ちますか。



4 救い主が、人々からさげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられ、悲しみと病を経験されたこと、その象徴である十字架にかかられたことは、何のためだと言っていますか。
・4,8節/


5 イエス様がそのように苦しまれ、病を負い、痛みをになわれたのは、神様が私たちの罪をイエス様にすべて負わせられたからです。罪とは、肉の行いのリスト(ガラテヤ5:19〜21)に載っているようなことですが、その本質は、どういうことだと教えていますか。その罪の結果、どうなってしまうのですか。
・5〜6節/
・ローマ6:21〜23, ピリピ3:19

6 あわれみ深い神様は、私たちのすべての咎をイエス様に負わせました。私たちが負うべき罪咎の責任をすべてイエス様が担ってくださいました。それを知ったなら、イエス様の十字架が私の罪の身代わりなのだと信じることが重要です。その結果、どうなりますか。どうしてくださると言うのですか。
・5節/
・Tペテロ3:18, Uコリント5:21/

7 イエス様は、私たちの罪のために十字架に死なれましたが、私たちが義なる存在となり、新しい命に生きるために、イエス様が十字架の死からどうされることが必要ですか。
・ローマ6:22〜23/
・ローマ4:25/


8 私たちは、世に生まれて人生を生きて行く間に、様々な心の傷や痛みを受けます。妬みや恨み、憎しみや嫌悪感、挫折や絶望等を通して心は傷つき、病んで、体まで痛んでしまいます。イエス様が「私たちの病を負い、私たちの痛みをになわれた」というイエス様の死と復活のメッセージは、信じる者に、何を与えてくださいますか。
・Tペテロ1:3/


9 イエス様が打たれ、苦しめられたのは、それによって私たちをいやすためでした。このイエス様による救いは、罪の赦しだけでなく、私たちに大きな癒しを与えます。イエス様は、人々に福音を伝えながら多くの「悲しみや病を持った」人々に出会い、人々を癒されました。福音書の四分の一は、イエス様の癒しに関するものです。私たちは、何を望み、どんなことをすることができますか。
・Tペテロ2:24〜5/


「命の実を刈り取ろう」

 一番重い病気は何でしょう。治らない肉体の病気が、それではありません。肉体が死んでも、天国に行くことができますから、滅びにいたる病ではありません。「死にいたる病とは絶望することだ」と哲学者は言いました。絶望は自分の弱さから目を背けて、何かに逃避し、誰かを憎み、攻撃します。神様の愛とあわれみを信じることが、人を絶望から解放します。私たちの罪の滅びの身代わりであり、「私の病を負い、私の痛みをになった」というイエス様の死と復活を学んで、心に期することは何ですか。この希望を持っているあなたは、それを誰に知らせますか。

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